妹尾昌俊アイデアノート

妹尾昌俊アイデアノート~ステキな学校、地域、そして人たち

元気な学校づくりと地域づくりのヒントをお届けします!

新潟市民病院での過労自殺と学校の実態は、似ている

本日の毎日新聞で新潟市民病院の研修医木元文さんの過労自殺が報道されていました。ぼくと同じ年でもあり、なんとも痛ましい話です。

以下、記事から引用します。

2016年1月、新潟市民病院(新潟市中央区)の女性研修医(当時37歳)が自殺したのは過労が原因だったとして、新潟労働基準監督署は31日、労災認定する方針を決めた。

・・・

亡くなった研修医は木元文(あや)さん。看護助手をしながら医師を目指して勉強を続け、2007年、新潟大医学部に合格。卒業後の13年から研修医となったが、15年4月に後期研修医として同病院に移ると、救急患者対応の呼び出し勤務が激増。

・・・

木元さんの電子カルテの操作記録から月平均時間外労働(残業)時間は厚生労働省が「過労死ライン」と位置付ける80時間の2倍を超える約187時間、最も多い月では251時間に達していたと主張した。

 一方、病院側は木元さんが自己申告していた残業時間は月平均約48時間だったと反論。「電子カルテの操作記録の多くは医師としての学習が目的で、労働時間に当たらない」と説明していた。

headlines.yahoo.co.jp

学校の多忙化については、このブログでもたびたび取り上げていますが(今日はそのことで2件も取材を受けましたが・・・)、病院の現場(とりわけ本件のような救急医療)でも厳しい現実があるようです。

このニュースを見たとき、ぼくは学校と大変似た構造があると感じました。

  1. 過労死ラインをはるかに超えるような長時間労働が常態化していること。管理者は気づいていながらも、子どものため(病院の場合は急患の人がいる)ということで、人手が増えないという大変厳しい事情はあるにせよ、手をこまねていた。
  2. 本件の場合は研修医、学校の場合は、新任教員や常勤講師(非正規雇用)などの立場の弱い人たちに大きなしわ寄せがきていることが少なくないこと。(学校の場合も、新任等だけの問題ではありませんが。)なお、新任教員の自殺という事案はあります。
  3. 労働時間の正確な実態把握という意味で、管理者側と本人(遺族側)の主張が大きく食い違っていること。なぜ客観性のあるデータがないのか、あるいは、あったとしても食い違うのか?

 

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別の毎日新聞の記事によると、病院側は労使協定違反の長時間労働という点は認識していたということ、しかし、「急性期病院のため救急患者を受け入れざるを得ない」と釈明している、とのことです。

mainichi.jp

本件で市民病院の落ち度はありますし、それを批判することはある意味簡単です。しかし、

  • なぜこうした事態が起きたのか
  • なぜある程度は認識しながらも、改善しようとしなかったのか
  • いくら急患がいる現場だとはいえ、人の命を救う現場でなぜこういうことになるのか(学校の場合は、人の命の尊さを教える現場で)
    という点が問われなければならないと思います。

新潟市民病院のウェブページには理念として、次のことが書いています。

病院の理念は、[患者とともにある全人的医療]をめざすことで、ウイリアム・オスラーの言葉による「医学・医療は患者とともに始まり、患者とともにあり、患者とともに終わる」を基に、その信念を何時も全職員が忘れることなく毎日の業務に携わっています。

おそらく、この手の理念は、なにも病院であれば珍しいことではないと思います。学校の場合は、「患者」のところを「児童生徒」とか「子ども」と置き換えてもらえたら考えやすいと思います。

患者優先、子ども優先は、当たり前と言えば当たり前なのですが、だからといって、患者のため、子どものためということで、思考停止になっていはいないでしょうか?人手が増えないなか、ある程度の過重労働は仕方がないじゃないか、と問題を過小評価することはなかったでしょうか?

また、自殺にまで至る心境や背景は人それぞれではありましょうが、患者(子ども)優先で考えるあまり、自分を責めてしまうようなところもあったのではないか、と推察します。

患者(子ども)のためという気持ちはもちつつも、今のままでいいのか、もっと見直せるところはないのか、つらい思いをしている人はいないか、もっと自分も大事にしようと言っていってもよいのではないか、ということを考えることがもっと必要だと思います。

また、本件でも労働時間の認識の違いがあるようですが、これは教員の世界でもよくあります。正式な労働時間の記録が残っていないため、裁判等で何年も闘争するということが多発しています。ICカードやタイムカード、PCログなどでせめて、学校内にいる時間は記録しておくことは、本人のためにも、管理者のためにも、優先度の高い施策でしょう。

なお、本件のように、学習していた時間は勤務時間外という主張も、切り分けが難しい問題もありますが、ヘンなところも多いです。研修であれば、すべて労働時間外かといえば、そんなわけはありませんから。電通の事案でも、自己研鑽に使った時間は労働時間から控除するという方法で、実態よりも過少な労働時間申告が横行していた、との報道があったように記憶しています。似た問題は多くの組織であるのかもしれません。

もっとも、労働時間の把握があるからといって、それで長時間労働の削減に動くとは限りません。しかし、正確な現状把握なしに有効な対策が生まれるとも思いません。

以上のように、今回の新潟市民病院のこととを、ぼくは学校改善を図ろうとしている身としても、他人事とはとうてい思えません。もう失われた命は帰ってきませんが、どうすればこういうことが起きないようにできるのか、引き続き取り組んでいきたいと思います。

 

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労使協定を無視した残業が常態化していたことが毎日新聞の情報公開請求で明らかになった。同病院は協定違反を認めたうえで「急性期病院のため救急患者を受け入れざるを得ない」と釈明。
労使協定を無視した残業が常態化していたことが毎日新聞の情報公開請求で明らかになった。同病院は協定違反を認めたうえで「急性期病院のため救急患者を受け入れざるを得ない」と釈明。
新潟市民病院(新潟市中央区)で、労使協定を無視した残業が常態化していたことが毎日新聞の情報公開請求で明らかになった。同病院は協定違反を認めたうえで「急性期病院のため救急患者を受け入れざるを得ない」と釈明

【忙しい学校 どうする?】文科省幹部に提案したこと

決戦は金曜日~、と懐メロが聞こえてきそうでした。今日は、いま話題の文部科学省へ。「教員の働き方改革に向けた論点整理のためのヒアリング」という初等中等教育局(幼児教育~小中学校~高校までが主な所管ですね)の局長主催の勉強会でプレゼンする機会を得ました。

働き方改革といいますか、教員の多忙化対策、負担軽減に向けて、検討したいということのようです。およそ25の団体・個人から聞き取りを行っているということで、1人の持ち時間はプレゼン20分+10分の質疑応答でした。

〇〇会代表などですと、その団体で出席しますが、ぼくはピン芸人のようなものですから、1人ぼっちで、ちょっと寂しかったですね。先方は、審議官から、課長、企画官、補佐ら、20人くらいはいましたので(男性率は高かったなあ)。

事前にFacebookやオンラインゼミでも、また研修会や飲み会等でも、多くの方(それも現場の教員や事務職員、学校支援している方ら)に意見や生の声をもらっていたので、ぼくの粗削りな部分は多かったと思いますが、率直なところを、気合入れてお伝えしてきました!

とても幸運だったのは、教員勤務実態調査を担当している課の方や、教職員の処遇関係を所掌する課、業務改善を推進している課、教育課程課、部活動に関係する課、ICT教育を担当する課などなど、関係者が一堂に集まっていたことです。

ぼくの資料は下記のスライドシェアにて公開しました。

www.slideshare.net

ぜひまたご意見等いただき、ブラッシュアップしていきたいですし、国はもちろん、教育委員会、学校などとも組んで、活動していきたいです。ぼくは評論家ではありませんので、実行を支援、伴走してなんぼと思っています。

 

下記にとくにお伝えしたかったことを書きます。スライドシェアと一緒にざっとお読みいただけると、嬉しいです。

  • 報道されているとおり、過労死ラインを超えて働いている教員は非常に多い。しかも、調査結果を平均だけで見ると誤解する。個別に見ると、月残業が200時間超えなどもいる。電通のケースが月130時間残業と言われているので、学校はもっと深刻だ。
  • 小中の議論になりがちだが、高校の多忙も無視できない。また人により、比較的残業の長い人、それほどでもない人、差が大きいことも認識しておくべきだ。
  • 直近の勤務実態調査の10年前、2006年時点から、学校が多忙なことと、休憩もとれないほど過密労働であることは明らかであった。この10年国等はどうしていたのか、と言われても仕方がないのでは?
  • 下記の資料のとおり、他の業界と比べても、学校のブラックさは異常である。国も、教育委員会も、学校長も、もっと危機感をもつべきだ。
    ※データには注意が必要で、調査の方法やサンプリングの違いはあるので、一概に他業界と小中学校を比較はできない。なお、労働力調査の学校教育には小中も含まれるが、幼稚園、認定こども園、高校、専門学校、高等教育機関等も含まれるので、参考値。

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  • よく多忙化対策というと、学校では、ノー会議デイや会議の効率化の話が出てくる。これも大事だが、それだけでは到底この労働環境の過酷さは解消しない。
  • やはり大きなところ(時間がかかっている)ところを見直していくことを考えるべきだ。具体的には、授業、授業準備、生徒指導・集団(給食、清掃等)、部活動、成績処理などだ。現場の先生の多くは、これらは子どもたちのために時間がかかっても仕方ないと思い込んでいる。本当に見直せる余地はないのだろうか?
  • 学校には大きく2タイプいる。忙してもモチベーションが高い人。この人たちは好きで多忙になっているところもあり、ポジティブだが、その分、歯止めがかかりにくいので、過労死など注意が必要だ。もうひとつは、モチベーションが下がっている人。この人には早期退職してしまうなど別のリスクがある。
  • 一生懸命やっているから、忙しても仕方がない、ではいけない。自己研鑽が細るなど、長時間労働の負の影響をしっかり見るべきだ。
  • では、どうするか。下記の3点は基本的な考え方として共有したい。

 

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  •  学校には大事なことが多い。それはよく分かる。しかし、スクラップ&ビルドなく、ビルド&ビルドだけでは多忙化は加速する。では、どうやってやるべきことを重点化するのか。それは、課題の重点化から始めるべきだ。
  • 下記のように、狭い意味での業務改善、方法改善では限界がある。仕分けと精選も進めないといけないが、それは学校の課題とビジョンを基準にするしかない。

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  •  文科省の方なら釈迦に説法だが、少子化の影響で児童生徒数は大きく減っているものの、教員数はそう減っていない。にもかかわらず、多忙な学校の実態は悪化している。ということは、必ずしも、定数改善(=教員数の増加)だけでは問題は解決しない、ということを示唆している。
  • とはいえ、これまで紹介した現状の問題を考えると、定数改善も求めたい。ただし、これまでの文科省の要求のように、35人の少人数学級にするための定数改善を求めたいのではない。先生たちが人間らしく働ける場として、労務環境改善としての定数増だ。この観点でぜひ厚労省と組んで、財務省と戦ってほしい。
  • 同時に、教員数増だけを考えていたのでもダメだと思う。教員がやらなくていいものはアシスタントさんにやってもらうことも拡充したい。実際先行事例では効果が出ている。
  • とはいえ、これもアシスタントを設置すればいい、という単純なものではない。人に頼るのが苦手な教師に働きかけるなど、職員室のコーディネーターが必要だ。この役割は、日ごろから教員と協力して日常業務をしてきた、事務職員のほうが向いていることが多い。そういった意味で事務職員の活躍を増やしたい。
  • また、小学校は10教科前後もひとりの学級担任がこなすのは、授業準備からして無理がある。現場では、流す授業になってしまう、という声もある。教科担任制までできなくても、複数教科の担当とするなど、もっと分担できるようにしてほしいし、小中高とも、一人当たりの週のコマ数も抑制するように、国は働きかけてほしい。

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  • 繰り返すが、定数改善だけが国の役割ではない。学習指導要領は優先度の高いものもリスクだが、逆に優先度が低いものはどうしていくかのガイドもほしい。たとえば、給食は本当に担任がずっと面倒を見ないといけないのだろうか?
  • 処遇・制度面では、教員調整額という残業代の代わりは、1966年に実施された調査をもとにしている。これはビートルズが武道館でコンサートした年で、ぼくの親父の青春のときだ。そのときから変更がないのは、やはりおかしい。

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  • 採点、添削も多くの小学校教員らが自宅残業までしてこなしている。これは、パソコンやAIでもっとできる領域のはず。次世代学校というなら、そのへんにも投資してほしい。これは児童生徒の個別の進捗に応じた教育にもなる。
  • ICTやネットを使うのと、リアルな場での対話等は、両方必要であり、ブレンドすること。
  • 現場の先生は、声をあげたくても、なかなか安心して届けるところがない。これも大きな問題だ。管理職育成のためにも、現場の声を管理職や教委に伝えるフィードバックの仕組みも考えたい。以上、7点を重点として提案する。

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★きょうはここまで。以前もシェアしましたが、下記の新聞記事も関連したことを書いていますので、よかったら、御覧ください★

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【本気で考えて実行しよう】総合の時間の一部を英語にしてええの?

今朝の読売新聞の報道によると、新学習指導要領で時数が増える小学校英語(外国語活動)は、来年度からの移行期間中、総合の時間の一部を使ってよい、ということになるらしい。

2020年度に実施される次期学習指導要領で小学校の英語が教科になることに伴い、文部科学省は18年度から2年間を移行期間と定め、授業時間確保のため、「総合的な学習の時間(総合学習)」の一部を「英語」に振り替える措置を容認することに決めた。

今夏にも関係省令を改正する。教員の多忙化もあり、授業時間を増やせないと判断した。

www.yomiuri.co.jp

賛否ある話だと思うけど、最初この報道を見たときは、耳を疑った

こうして総合的な学習の骨抜きがさらに進むのだろう。

だいたい、現状でも、学校行事もかなりあって、総合の時間は使われていると聞く(学校にもよるでしょうけど)。たとえば、運動会は体育のためだけではないとはいえ、体育の時間だけでは足りないので、総合の時間などを使って準備をする。ソーラン節をやることが総合的な学習だろうか、かなりギモンなのだが、そういうことをちゃんと説明できる学校や教育委員会は多くいるのだろうか?

つまり、総合的な学習について、理念はよいとしても、既に運用はその理念についていっていない現実もあるのではないか?上記の文科省の容認措置は、このような現状の骨抜き傾向を加速させることになりかねない。※下につづきます。

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新学習指導要領は、答えのない問いに立ち向かう力や、協働して問題解決する力を伸ばすことに、趣旨、主眼がある。以下は、わたしの研修でも度々引用する、中教審の答申の重要な箇所だ。

解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解いたり、定められた手続を効率的にこなしたりすることにとどまらず・・・・主体的に学び続けて自ら能力を引き出し、自分なりに試行錯誤したり、多様な他者と協働したりして、新たな価値を生み出していくために必要な力を身に付け、子供たち一人一人が、予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすることが重要である。
中央教育審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」(平成28年12月21日)

 

現行の指導要領でも、この側面はあるが、新学習指導要領でより強調されている問題意識、理念であると思う。総合の時間は、この趣旨に親和性がある。つまり、決まった答えを効率的に出すトレーニングではなくて、自分なりに試行錯誤したり、他の児童や場合によって地域の方等と協力して課題に取り組む学びになる場だ。

言い換えると、アクティブ・ラーニングだって、もちろん英語(外国語活動)でやってもいいのだが、総合の時間がもっとも自由度高く、深くできるはずではないか。
***

ビルド&ビルドで、学校のやることをどんどん増やしていくのは、どうかとは強く思うのだが、だからといって、総合の時間をもっと軽くしてよい、というのは、21世紀を生き抜く力という意味では逆行する措置だと思う。

ただし、総合の時間を、主体的な学びや深い学びの時間にしようとしたら、教師の側に相当時間の手間や準備がかかる。そんなことは当たり前の話。

小学校の先生はすでに10教科といった準備をしていて、タイヘンだ。この記事でも、先生たちの多忙が背景として語られている。

たしかに小学校現場が悲鳴をあげる事情ももっともだ。

  • 英語は、時数を増やしてもっとがんばりましょう
  • 総合などでは、主体的で対話的で深い学びもできるといいですね
  • 道徳も教科化しますんでよろしくね などなど

この理想論を本気で実行しようとするならば、「総合の時間の一部で英語やってもいいですよ」は、解決策ではない

本来は、教科担任制に近いかたちで、たとえば、A先生が5、6年生の国語、算数、理科をみます、B先生は社会、総合、道徳を見ます、C先生は英語専科で3~6年の外国語です、みたいにすることだと思う。そのほうがしっかり授業準備できるだろう。

もちろん、教員定数とそれに伴う財源の問題はある。人を増やせずに上記のような工夫をできる余地がまったくないわけではないが、かなり大変だろうと推察する。
***

そうしたなか、苦肉の策として、移行期間中は、総合の時間の一部を英語にしてよい、という話になったのだろう、とは推察する。しかし、本来の趣旨を形骸化させる手段に走るのはいかがなものか。

つまり、なんだろう、モヤモヤするのは、今回の話には、国側の本気度が伝わってこないからだ。繰り返しなるが、本気で、子どもたちの問題解決力等をもっと伸ばす学校教育にしたいのであれば、もっと別のところで政策手段と財源的な措置を考えていくべきだと思う。中教審は高い理想を言ってますけど、現場ではテキトウでいいっすよ、ではないはずだ。

***

問題は、国の対応だけではないと思う。忙しいなどの事情はあるだろうが、多くの小学校や中学校で、新学習指導要領の話など、上の空のことだとも聞く。つまり、「英語の負担が増えて大変だな、どうするよ~」はみんな知っているし、話題にもなるのだが、今日引用したような理念は、一般の教員の多くは知らないし、校長等ですら、ちゃんと捉えていない学校もあるように思う。(いや、そんなことない、という学校もあるでしょうけど、それはいい学校だと思いますよ。)

国や教育委員会がゆるい話をもってきても、「うちの学校は、こういうビジョンで総合の時間は活用しますから」としっかり言える校長は、どれだけいるだろうか?

 

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『不安な個人、立ちすくむ国家』経産省若手官僚の資料にちょっと申し上げます

ネットで話題になっているらしい、経産省の若手官僚(20代、30代)のプロジェクトチームの方が作った資料(リンク先)。まったく外野からの率直な感想を書きます。

★資料はこちら

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf

★ネットで話題はたとえば、こんな感じ

togetter.com
***
超多忙なお仕事をしながら、意欲的な挑戦だと思いますが、いろいろモヤモヤが募るペーパーでもあります。

一番は、So what?

何が課題なの?何が言いたいの?がどうも伝わってこない気がします。

たぶん最後の3.我々はどうするかがメッセージだと思いますが、1.2.とうまくつながっているかなあ?3.の根拠や具体的な政策メニューがもっとあったほうがよいかもしれません。

***
まずは現状認識について。政策や社会システムが主たる原因であるものと、そうではないものがごっちゃになって議論されていると思います。

たとえば、母子家庭の貧困は、社会保障の問題であるので、政策論。しかし、老後にTVばっかという生き方してるよねは、個人のライフスタイルや価値観の問題であり、あまり社会システムは関係ない気がします。
***
次に違和感があるのが、どうも人生には正解があるふうなテイスト、前提です。

「人それぞれでしょう」と言いたくなるし、「政府に人の人生について関わってほしくねーよ」という人もいると思います。

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昔も、どうだったのでしょうか?そう単線的な、昭和な生き方ってカチッとしていたのでしょうか?

この資料のp10で奇しくも紹介されているように、正社員になり定年まで勤めあげる、というのは、1950年生まれ(=ぼくの親父と同じ年)でさえ、34%しかいなかったのです。これは、いまの朝ドラとほぼ同時代。出稼ぎのような不安定な職の人もいましたし、起業する人だっていました。

この資料では、昭和な生き方ではある程度、レールに乗っかれるものがあったけど、いまは、しっかりしたレールがなくて不安という前提です。だから、資料のタイトルが「不安な個人」とあります。

しかし、昔からレールなんて、そうたいしたものはなかったのかもしれません。

1950年生まれの人と、いまの世代のもっとも大きなちがいは、日本が人口増社会か、人口減社会かのちがいです。つまり、人口増の時代は、ある程度放っておいても内需は増えたから、仕事も、そして多くの場合、所得も増えました。しかし、いまはそうではない。だから、「不安」なんです。レールがあるかどうかよりも、経済成長しやすいかどうかのちがいではないですか?

***

関連して、このペーパーは一見、多様な生き方を促したいふうな体裁をとっていますが、実は、中身はそうじゃない感じもします。そこが一番ひっかります。ぼくの誤解があるかもしれませんが。

たとえば、年金がもらえるからといって、元気なのに、仕事も地域活動もせずに、TVばかりの老後はダメ、という価値観が透けて見えますが、ほんとにそれでいいのでしょうか?余計なお世話だ、って言われちゃいますよ。

***
インプットも大丈夫でしょうか?

エライ人たちとディスカッションしたと書いていますが、大学の先生らとの会話は、彼らは日常の業務のなかでも少しはできているはず。

本当に必要なのは、もっと当事者意識のある人や現場の人たちではないですか?

たとえば、TVばっか見ているふうな、あるいは図書館でぼけーとしているようなシニアな方にインタビューしたのでしょうか?彼らは、いまの生き方で幸せだ、って言うかもしれませんよ。あるいは、市町村の公務員にも聞いたほうがよいかもしれません。現場感が鋭いから。

***
おっと、悪口を書きすぎましたかね。。。でも、この程度の批判にめげる方たちではないと思うので、期待を込めて批判的に書きました(読んでくれる人はいないかもしれないですけど。)

ご意見はメールでもFacebookメッセージでも歓迎です。

 

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ぼくが学校の多忙化に取り組む理由

きょうは日曜だし、短めにいきますね。(いつも理屈っぽく、長たらしいブログを読んでくださり、ありがとうございます。)

学校が”ブラック”だとか、長時間労働の問題について、自分なりに繰り返し発信したり、管理職研修等をしたりしてますが、それはなぜか。

いま頑張っている先生たち(事務職員や教育員会スタッフなども含め)が、やはり人間らしく、働きがいをもって生きてほしいからで、まあ、そういう方と楽しく飲みに行ったりしたいなあと思うわけで、教員になるな、早く辞めちまえ、いまの管理職はダメダメすぎるとか、言いたいわけではないです。世論的に多忙化に関心が高まることで、結果的に、教職や管理職になるのを敬遠する方も増えるもしれませんが。

また、自分の中では、多忙化は解消や緩和が目的としていません。

それは手段だからです。

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これは述べ出すと、また長くそうなので、なるべく簡潔に。2つのゴールがあります。1つ目は、先ほど述べたとおり、先生たちのなかにも、人生楽しむやつが増えるといいなあと思うから。そのほうがいいでしょ?

もうひとつは、クリエイティブな教育とか、子どもたちが生き生きした目をする学校にもっとなってほしいからです。そのためのキーとなるプロセスのひとつとして、多忙化をなんとかしないと、余力やエネルギーが生まれないよね、という問題意識です。

先日、掃除機のダイソン財団が協力した、横浜市立中川西中学校の授業を観ました。ダイソン氏は、掃除機を開発するのに、3千回だったかの失敗をしています。そういう話をしてくれる。そのあと、生徒たちは、試行錯誤でいいから、日常生活でこの不便を変えたいとか、アイデアを絵にかいて、あるいは試作品をつくって、発表しようという授業。技術家庭をメインに、国語や理科も兼ねています。

その子どもたちの表情がすごくステキだった。年中こういう授業ばかりはできないだろうけど、こんなことも増やせる学校を増やしたい。だから多忙化の問題にも取り組む必要がある、と思っています。

では、また。ボンボヤージュ!

 

★お知らせ 5月28日@横浜で勉強会をします!

元気な学校づくりゼミ ~学校の”当たり前”を見つめなそう♯2 ~
日時:2017年5月28日(日)13:30~16:45 
場所:横浜情報文化センター 小会議室
***
課題図書を読みながら、学校教育のいまとこれからを考える場です。
今回は、学校が、教師が”よかれ”、”当たり前”と思って続けてきたことについて、捉えなおします。
具体的には、ある程度(たとえば平均点以上に)多方面にできる力をつけようという学校のビジョン、指導観について。詳細は下記。

www.kokuchpro.com

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たくさんの当事者を知るー地域づくりや学校づくりに関心をもつには

きょうは、写真のとおり、松木正さんと松本英輝さんの学習会(ワークショップ?)に参加してきました~。

松本さんは、世界中を自転車で旅する、元気すぎるおっちゃん。上海からウルムチまで、中国大陸を27日だっけかで自転車で完走してしまう話など、とっても面白かったです。ぼくは中国大好きで、学生のときにシルクロードの旅と称して敦煌や蘭州に行ったり、三国志の旅と称して成都や赤壁にも行っていたので、親近感ありました。

なぜ、そんなしんどい旅をやるんですか?と聞いたら、「全然しんどくない。新しい発見があって楽しい。自分の限界も年を取るごとに高く越えていける」と、いま57歳(たぶん)の松本さんは、話してくれました。まだ先だけど、こんな50代でいたい。

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松木さんは、うちの妻つながりで前からの友達ですが、いつもお互い酔っぱらったときの会話だった(うちで懇親会するとき)から、今日はシラフでちゃんと聞けてよかったです。

表面的な現象(これをコンテンツを呼ぶ)、見たいものだけ見るのではなく、その深層(プロセス)に目と心を向ける、という話などはとても興味深かった。ぼくはこのブログのとおり、理屈っぽいことが大好きですが、人間、ロジックだけでは動かないのも知っています(だって、子育てしているとよく分かるよ)。松木さんがいうプロセスにどこまで迫れるか、動かせるかだな、と感じました。

 

ところで、きょうの記事のタイトルは、ある参加者の方が言っていたことに関連してです。まちづくりや教育に、関心のある人はいるが、関心のない人も多い。どうしたらよいだろうか?

ぼくは霞が関に出向しているときに、いろんなワークショップを企画・運営していました(とっても楽しい仕事でした。中小省庁には珍しい仕事だろうけど)。そのなかで、ある大学の先生と話していたことがあります。どうしたら、地域づくり等に関心を高め、あるいは、その関心を持続させることができるか?

その先生は、たしかこういう内容をおっしゃいました。「なるべく多様な参加者がいることがアイデアを出すときには大事ですが、とりわけ、参加者の本気度を高めるには、当事者がいることが大事です。

なるほどと思いました。たとえば、地球温暖化をなんとかしたい、と思っても、そう切迫感はフツーの人は感じないわけですが、砂漠化で大きなダメージを受ける人や島がしずんじゃう人が隣にいて話してくれたら、どうでしょうか?

あるいは、学校教育でいうと、いまの高校教育のままでいいのだろうか、センター試験がどうこうなるらしいけど・・・と、なんとなくのギモンがあったとします。それも、高校を卒業した人や中退した人、あるいは現役高校生などの声を実際に聞くと、がぜん、関心と問題意識が高まることでしょう。

つまり、こういうことです。当事者になれるわけではないかもしれないけど、当事者を近くに感じることで、当事者意識を高めることはできます。

他人事として、評論家ずらしてあれこれ言うだけ、愚痴るだけはラクかもしれません。でもそれでは、行動につながりませんし、何かやっても続きません。やはり当事者意識を高めることがエネルギーになるのですが、それは当事者と深く、あるいは広く触れられたか(直接、間接)だと思います。

 

ぼくはよく(儲からない)学校教育の支援を、どうしてやっているんだ?と聞かれます。しかも教育学部出身でもなく、教員経験もないので、なおさらフシギでしょ?

これについては、いろいろな思いはありますが、ひとつは、当事者に多く、深く出会えているからだと思います

たとえば、ぼくが雑誌や研修会で副校長・教頭向けの話をしてください、書いてくださいと言われたとします。そうすると、「じゃあ、あの〇〇教頭を思い浮かべながら、〇〇教頭にもうん、うん、なるほど、と思ってもらうのにしよう」って考えます。

本を書くときも基本は同じです。友人に教員や事務職員は多くいますので、そうした一生懸命毎日やっている人、でも悩みも直面している人のためになることをしよう、と。

このへんは、自分軸と他人軸が重なる部分です。ぶっちゃけ、他人にどう思われようが、言われようが、自分は自分なので、知ったことではない、ともぼくは思っていますが、とはいえ、仕事や社会のこととなると、自分だけの満足でも満足できないのも確かです。

みなさんは、どうですか?なにか本気でやりたいことってありますか?それの当事者ですか?あるいは多くの当事者を知っていますか?

 

★お知らせ 5月28日@横浜で勉強会をします!

元気な学校づくりゼミ ~学校の”当たり前”を見つめなそう♯2 ~
日時:2017年5月28日(日)13:30~16:45 
場所:横浜情報文化センター 小会議室
***
課題図書を読みながら、学校教育のいまとこれからを考える場です。
今回は、学校が、教師が”よかれ”、”当たり前”と思って続けてきたことについて、捉えなおします。
具体的には、ある程度(たとえば平均点以上に)多方面にできる力をつけようという学校のビジョン、指導観について。詳細は下記。

www.kokuchpro.com

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【お知らせ】オンラインゼミ。アウトプットとインプットの好循環!

きほんFacebookと似てますが、オンライン上で、たまに深くやりとりするゼミ(オンラインサロン)を運営しています。「元気な学校づくりゼミ」と名付けました。

始めてから約2か月が経ちました。いろいろ試行、チャレンジ中です。

いつ入って、いつ出てもOK。有料という、ひとつのハードルをつくったので、とても熱意のある方が参加してくれています。

本なども無料で借りても読まないときってありませんか?自腹を切るから吸収しようとするところはあります。学校の先生は教育委員会主催などの無料研修が多いので、これは、ひとつの学校文化へのぼくなりのチャレンジでもあります。

ゼミ生には、教員の方も、事務職員の方も、元教員の方も、民間企業や親として学校を支援している方も、教育行政の方もいます。ビジネス書などでもよく言われていますように、多様性はよいアイデアを出していく武器になります。

それぞれの空いた時間で、できる範囲での参加・貢献で構いません。

★★★

月1冊のペースで課題図書を決めて感想をシェアしたり、事例検討などもたまにしていますが、多いのは、ぼくが日ごろブログで書いているような、ちょっとした気になることやギモンについての情報交換、意見交換です。

前回のオフ会(リアルゼミと名付けてます)では、内田良先生の『教育という病』を課題図書に、アツく議論しました。前回は水橋史希子さんをゲストにフィンランド現地視察報告も交えつつ、課題図書の感想や妹尾のプレゼンなども含めて、みんなで、学校のこういうところは見直せるよね、ってアイデアをたくさん出していきました。

 

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それから、当初の予定から最近追加したのは、出版企画or連載企画を立ち上げたことです。

意見交換したことやアイデアを、オンライン上で(たまにオフラインでも)ブラッシュアップしつつ、どこかにアウトプットしようというものです。今のところ、仮タイトルは「学校の”当たり前”を本気で見直そう」にしてますが、そこも変更・発展していくかもしれません。

現時点でとくに出版社などが見つかっているわけではありませんが(絶賛募集中ですよ)、きっとおもしろい内容のものができると思います。

意図としては、世の中に、学校はもっとよくできるんだ、という可能性と現実的な方法をもっと広めたいという思いがあります。それから、自分もゼミ生の方も含めて、やはりアウトプットの場があったほうが、人間、インプットもすると思うからです。アウトプットとインプットは相互に影響する好循環でいたいものです(ぼくがブログを書くのも同じ思いから)。

★★★

アウトプットのもうひとつは、政策提言と実行です。これは、半分ぼく自身のためでもあります。シンクタンクにいたときは、優秀な先輩や同僚たちがアイデアを膨らませるるのを手伝ってくれましたし、ときにはとてもキビシク批判してブラッシュアップしてくれました。組織文化としてよかったのは、”いいアイデアを言ったやつがエライ”というところでした。年齢や肩書、もちろん性別は関係ありません。

そういうのと似たことを、オンライン上で限界もあるけど、やってみようという企みです。

幸い、妹尾は、文科省や教育委員会の方とお話する機会はかなり多いので(いくつか学校業務改善アドバイザーや有識者委員会の委員にもなっています)、学校現場の声やアイデアを、いくらか届けることはできると思います。

しかし、評論家になるつもりは毛頭ありません。実行してなんぼです。すでにいくつかの学校や教育委員会と組んで、一部はやっていますし、その動きは広げたいと思っています。

★★★

というわけで、きょうは宣伝めいた投稿となりましたが、気軽にどうぞご参加ください。ご不明な点やご要望などは、妹尾までFacebookメッセージか、emailをいただければと思います。

synapse.am

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たかがお茶出し、されどお茶出し

連休が明けて、みなさん、お元気でしょうか?ちょっとはリフレッシュできたという方も、いや~そうでもなかったという方もいると思いますが、覆水盆に返らずですしね。五月病とか、大丈夫でしょうか?

うちは連休中、子どもが3人妻方の実家に行っていましたので、ずいぶん楽ちんでした。遠出はせず、映画館や近くの温泉に行ったりで、ゆっくり過ごしました(映画3本も観ました)。

★写真は葉山のめちゃうまパンや、ブレドールです!

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きょうは、娘の小学校のPTAの会議がありました。来月運動会があるので、その話題も。そこで出たのが、当日教育委員会などの来賓があるので、保護者にお茶出しを手伝ってもらえないか、という学校からの申し出でした。

毎年そうしてきたのだと思います。保護者10人ほど、9時~10時の間にいてくれると、ありがたいという話でした。そこで、ぼくは次のことをお話しました。

PTAはボランティアな活動ですし、お茶出しをしたくないのでしたら、断っていいと思います。教育委員会は半分、学校の身内みたいなものですし、保護者にとってお客様ではありません。むかしの男尊女卑的な発想でお母さん方がお茶出しをする理由はありません。それよりも自分の子どもを観ていたいというお考えでいても自然だと思います。でも、まあ暑い中来てくれているので、ちょっとしたことだし手伝ってもいいよ、という考え方もあろうかと思います。どう思いますか?

すると、あるお母さんが、ペットボトルでお茶を買っておいて、それを渡すことにしませんか?そうしたら、そんな手伝いの人数は要らないだろうし、飲みたくなければ持って帰ることもできるし、というアイデアを出してくれました。

少し意見交換して、その案でいくことになりました。学校としては来賓受付はするし、そのときに渡せばよいので、保護者手伝いはなくて大丈夫、ということになりました。

ちょっとしたことですが、あまり意味のないことには労力をかけず、ちょっとした勇気を出してやめる、あるいは代替案を探るということの例だと思います。

たかがお茶出しなのですが、いろいろなことが見えてきます。

保護者、それもほとんどの場合、お母さんたちの有志(≒PTA役員)がお茶出しをしてきたというのは、ちょっと考えてみれば分かるとおり、ちょっとヘンです。4点に分けてみます。

1つ目は、誰が客かという論点です。お母さんたちは学校の職員ではありませんし、対する教育委員会(または市長)は公務として給料ももらって来ています。それに、市立小学校なので、設置したのは市の教育委員会。むしろ、教育委員会のほうがホストで、保護者は客とは言いませんが、ホストではないはずです。

※来賓が議員の場合もあり、学校と議員との関係はややこしいです。しかし、この場合も、議員だって、保護者にとって客ではありません。

2つ目は、お母さんたちの無償労働や善意を手軽に利用できるので、しちゃっていた、本当にそれでいいのかという論点です。ボランティアは自ら進んでやるならいいですが、例年やっていたから今回もお願い、動員してね、というのはちょっと違う感じがします。まあ、お茶出しくらいで目くじら立てなくていいよ、と思われるかもしれませんが。

3つ目は、性別のヘンな役割分担を、暗黙のうちに子どもたちにも伝えかねないことです。受付やお茶出しを男性の保護者がやっている学校はたぶん、そう多くないと思います。代わりにテントの片づけはお父さんたちが活躍するなど、それぞれの強みを活かすのは大事なことではあるのですが、やはりどこか旧態依然とした男女の分業で動いていることを感じます。大人同士であれば、双方の合意でいいのですが、学校教育の場なので、子どもへの「隠れたカリキュラム」としての影響も考えたいです。

4つ目は、どの財布が負担するかという問題です。学校がこれまで保護者の無償労働に頼ってきたのは、ペットボトルのお茶を出すといった予算を計上していなかったこともあります。学校によっては校長のポケットマネーでお茶を買ってくるなんてことも起こりかねませんが、それもビミョウな話です。一方、学校が正式に来賓として呼んだならまだ分かりますが、(勝手に)来た来賓に税金でお茶を出すのは、いいのかなというところはあります。

さらに、これはこれでビミョウな部分もありますが、今回のお茶代はPTA予算からとなりそうです。子どもに直接関係ないのだし、PTA費として支出するものではない、という考え方もあろうかと思いますが、少額ですし、せっかく見に来てくれた方に保護者からの小さなプレゼント(まあ大げさですが)という程度のものと捉えてもよいと思います。

今回の変更でよかったかどうかは、また意見があろうと思います。たかがお茶出し、されどお茶出しというわけです。

 

ちなみに、教育委員会の方は(たぶん市長も)、市内のすべての5つの小学校を回って、各校でお茶をもらうことに例年なっているそうなので、うちはペットボトルのミネラルウォーターにしましょう、お茶ばっかりだと飽きるし、ということになりました(笑)。

 

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【忙しい学校 どうする?】本当に必要なのは残業規制なのか?

教職員の残業規制を求める運動がスタート

昨日、「教職員の時間外労働にも上限規制を設けて下さい!!」という運動が始まりました。過労死された教員の遺族の方が手記を寄せてくださっています。この運動の賛否(後述)はともかくとして、「パパを返して」というこの手記は、多くの方に読んでいただきたいと思います。

自分の命を縮めて、家族に寂しい思いをさせて、子どもにとって「ひとり親」にして、、、。そこまでしないとできない仕事は辛すぎます。

www.change.org

報道もされています。

公立学校の教員は制度的に時間外勤務の想定がなく残業代も支払われず、労働実態に見合っていないとして、教育研究者らが一日、時間外労働を把握し上限規制を設けるよう政府に求めるインターネット署名を始めた。署名サイト「change.org(チェンジ・ドット・オーグ)」で、六月初めごろまでに四万人を目標に募り、松野博一文部科学相らに提出する。最終的に二十万人を目指す。 

(東京新聞、2017年5月2日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201705/CK2017050202000253.html

ぼく自身は中途半端な言い方ですが、この主張には、半分賛成、半分反対

まだ、違和感のほうがあるので、ぼくは署名はしませんでした。読者の方に押し付けるつもりはまったくありませんが、その理由を今日は書きます。今後考えが変わるかもしれませんが、現時点での自分のアイデアを整理しておきます。反論、ご批判も歓迎です。

まず、賛成なのは、教員の長時間労働はこのままではいけない、というところです。過労死や病気になる方は一人でも減らしたい、起きない環境にしたいと切に感じています。また、そこまで至らなくても、早期に退職を余儀なくされたり、育児・介護とは両立できない、と諦めてしまう人が減るようにしたい、とも思っています。

そうでなければ、こんなにめちゃ時間かけて、何度もブログで【忙しい学校 どうする?】とか書きませんって!

また、すごく長時間の残業をしているのに、実質残業代がほとんど出ていないというのも、大きな問題です。先日ブログに書いたとおりですが、50年前から変わっていないのは、どう考えてオカシイ話です。ビートルズの時代からでっせ!?

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悪いのは、本当に給特法なのか?

以上が賛成、共感するところですが、一方で、半分反対と書いたように、違和感もあります。もっともひっかかるのは、「時間外労働(残業)の上限を設けよう」というこのキャンペーンのメイン主張です。

詳しくは省きますが、現行制度はリンク先の文科省の説明のとおり、公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法(略して給特法)によって、公立学校教員の時間外勤務手当及び休日給は支給されず、教職調整額(給料月額の4パーセント)が支給される制度となっています。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/031/siryo/07022716/003.htm

今回のキャンペーンや、中心となっている樋口先生らの主張(たとえば、総合教育技術5月号を参照。わたしのインタビュー記事も登場しています~)は、おそらく、次のロジックである、と理解できます。

  • 給特法によって、公立学校の教員には残業代が出ない。(a)
  • 残業代を出さなくてよいので、学校側(校長等)は残業(休日勤務を含む)に無頓着でいられる。労働時間を把握する必要すらない、との意識になってしまっている。(b)
  • 企業では高額な残業代を出すことをためらうために、業務量の調整等が行われるが、学校はそういうインセンティブが働かない。(c)
  • 教員の残業が常態化する。(d)
  • 過労死基準を上回る長時間労働が横行する学校の「常識」を変えるため、直ちに時間外労働の上限規制を設けるべき。(e)

 

 まず、上記のうち(a)と(d)は事実です。(d)は最近の勤務実態調査でも明らかです。

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ぼくが特に問題にしたいのは (b)と(e)です。残業代を出す必要がない、あるいは残業時間の上限がないので、校長等は労務管理はなおざりでいい、と思っているのか?という問いです。本当にそうでしょうか?

そもそも管理職ならみんな知っていると思いますが、教員には原則時間外労働を命じることはできない制度になっています(超勤4項目の規定)。また、休憩時間の確保などは労基法上定められており、これは学校にも適用されます。

このように、見かけ上は、現行制度でも、かなり「手厚い」ともとれる保護があるにもかかわらず、教員の長時間労働は続いているし、悪化しています。

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 どうしてでしょうか?

問題の真因仮説①:学校にも教育委員会にも、労務管理については、法令遵守の意識が弱いから。

背景のひとつは、超勤4項目や労基法上の休憩時間の確保について、守る意識が学校側にも、また監督責任をもつ教育委員会(市町村立学校の教員については市町村教委、県立学校などは県教委)にも少ないから、という可能性です。

校長や教育委員会の職員なら、ほとんどの人が、学校現場は超勤4項目以外での残業が常態化している、つまり、超勤4項目で歯止めをかけたつもりだったのに、現実にはそれは形骸化していることは、知っています。

また、とくに小学校などでは、子どもがいる間はほとんど休憩時間をとれず、人間的な労働環境からは遠いことも多くの人は知っています。トイレを我慢する、という先生は実は少なくありません。

なのに、なぜ改善しないのか。まあ、法令上の原則は原則だけど、守らなくていいか、となっているからではないでしょうか?

道徳教育うんぬん以前の問題で、教育現場と教育行政には、法令遵守の意識に欠ける、と評すると言い過ぎでしょうか?

問題の真因仮説②:教育効果があればOK、コストは無視という価値観のせい。

仮説①とも関連しますが、超勤4項目以外で残業していても、それは、子どものためになることを教員がやっている、それはいいことなんだから、咎めないという意識が校長や教委には働いている、という可能性。

裁判でも、教員の時間外労働が争われた案件で、これは校長の命令ではなく、教員の自主的な判断によるもの、との見解を示したものがあります。つまり、教員は子どものためを思って、自主的に教材研究や部活動をしているのだ、形式上、タテマエ上は、校長は残業を決して命じていないということになっています。

なぜそんな実態にそぐわないタテマエがずっとまかり通ってきたかと言えば、校長も教委も、残業を続ける教員自身も、教育のため、子どものためなんだから、いいだろう、仕方がない、と思い込んでいたから。これが仮説②です。

言い換えると、教育効果があるというのは錦の御旗。コストはほとんど考慮しない、というわけです。

問題の真因仮説③:責任の所在があいまい、かつモニタリングがないから。

教員の労務管理の責任者は誰ですか?と問われれば、ややこしい問題があります。

地方教育行政の組織及び運営に関する法律の第四十三条には、「市町村委員会は、県費負担教職員の服務を監督する。」とありますから、市町村立学校の場合は、市町村教委が監督はしないといけません(県立学校の場合は県教委)。同時に、校長も監督します(各自治体での学校管理規則等)。

つまり、市町村立学校の場合は、労務管理の中心は市町村教委と校長。しかし、政令市などを除き、教委には職員はそういないし、校長は身内みたいなもの(教育委員会の職員のなかにはその後で校長等となる人も多いです)。それに、学校や教育行政にはIT化も遅れている。これらの理由から、市町村教委では、ちゃんと労務管理できない。

結局、このキャンペーンにも書いているとおり、タイムカードなど労働時間の管理すらしない。予算措置ができないでいるところが多いのです。

つまり、ここではお互いに言い訳ができてしまいます。

市町村教委の主張:
労務管理ちゃんとやれ、と言われても、職員はいないし、現場監督である校長がまずはしっかり観てますから!ご安心を~。

校長の主張:
労務管理ちゃんとやれ、と言われても、タイムカードもPCログの把握もないしね~。観れる範囲では観てますよ、ちゃんと!あとは教委に少しでも働きやすい環境になるよう、要望してます。

こんな感じかもしれません。

 

もし仮説①~③のどれか(あるいは複数)が当たっていたとしたら、残業の上限を設けても効果は小さい。

「問題の真因仮説①:法令遵守の意識が弱いから」が仮に正しい場合

残業規制があろうと、学校や教委は、ごまかそうとする。現にある市では、残業時間を月80時間超えるとややこしいことになるので、80時間未満にしなさい、正直につけるなよという”指導”が校長あるいは教委から入るところがあるらしい。

 

「問題の真因仮説②:教育効果があればOK、コストは無視という価値観のせい」が仮に正しい場合

上限規制があっても、教員が自ら、ちゃんと申告しない可能性がある。あるいは自宅に仕事を持ち帰る。タイムカードをおさない休日出勤の横行などは現状でもとても多い。

職場の価値観としても、残業規制があったからといって、仕事が減るわけでもなく、子どものためには仕方ないんだよ、という空気が蔓延。事実上は現状とあまり変わらなくなる。

むしろ、残業上限までは働いくのが当たり前だ、という変な価値観を学校に増幅させてしまう危険性すらある。育児・介護などを抱えた人にとって、さらに働きにくい職場になるリスクもある。

★★★
ただし、教員に残業代が時間に応じてちゃんと払われるようになれば、仮説②の問題は幾分か、やわらぐ可能性はあると思います。教育効果はあっても、こんなに多額の残業代を払うほどやるべきか、という議論は学校内外から起きますから。
このキャンペーンが「教員に適正な残業代を支払え」であれば、ぼくは賛成していたと思います。

 

「問題の真因仮説③:責任の所在があいまい、かつモニタリングがないから」が仮に正しい場合

誰も責任をもってモニタリングしないので、規制が守られているかどうか、ちゃんと報告されない。あるいは報告のための業務がまた増えて、学校現場はさらに疲弊する。

 

みなさんは、どう思いますか?どうもぼくは上記の理由から、残業規制でマシになるほど現実は甘くない、と思うのです。むしろ、マイナスの影響、リスクも懸念されます。

実際どうですか?給特法の適用外の国立学校の場合、たとえば、国立大学の附属小中学校などでは、研究事業がものすごく盛んです。それで夜中まで残って過酷な労働環境という例もあると聞いています。残業規制はちゃんと効いていないのではないですか?

※このへんは、ちゃんとぼくは調査していないので、事実誤認があればご教示ください。

かといって、現状がよいとも思っていません。

では、どうするか。対策例としては、仮説①、③にとくに関わりますが、PCログなどを校長を経由せずに自動集計して見える化する仕組みや、教職員が安心して使える内部告発の保護がほしいところです。

仮説②については、直接的には、管理職や教員の意識改革が必要ですが、同時に、教員の仕事を減らしていくことと、効率的にできることを変えていかないといけないと、学校現場の納得は得られないと思います。

長くなりましたし、今日はこのへんで。

★★★妹尾の考える今後の在り方の一部は、先日、日本教育新聞に取り上げていただきましたので、よかったらご参照ください。あるいはオンラインゼミでも議論していますので、ご参加ください。

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【忙しい学校 どうする?】わが子を大切にできる学校にしませんか?

みなさん、こんにちは。今日はふるさと徳島に帰ってきて、中学の頃の友人の結婚式に参加してきました。やはり徳島はあたたかい、とてもいい式でした。

きょうは幸せオーラで気持ちよく酔っているのですが、改めて感じたことについて。

学校の多忙化の問題をとらえるとき、何度か申し上げていますが、なんのため?というところがすごく大事だと思います。

  • わたしは子どもの成長を願って一生懸命やっているだけ。どうしてそれがダメって言うの?だいたいアンタにごじゃごじゃ言われなくないよ。
  • ”働き方改革”とか”業務改善”なんて言われても、ぴんとこないな。国や教育委員会は、教員定数も増加させないままで、どこまで本気でやろうとしているの?
  • 世の中は長時間労働解消に向けて動いている?でもどこまでできるのかな~。それに、学校は社会とは別だからね。だって、子どものために必要なことは切れないし。
  • この忙しいのはなんとかしたいけど、管理職に提案しても聞く耳もっていないし。しまいには、子どものために頑張ることを負担とはなんだ!?って怒るし。。。

などなど、こうした声があると思います。つまり、納得していないと、この忙しいなか、改善、改革なんて前に進むわけがありません。この現実をちゃんと見ないと、対策はあさってのほうに行ってしまいます。

※写真はきょうの結婚式のデザート。美味~。

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そこで、ぼくは前にもお話したように、子どもと向き合う時間の確保のために、多忙化対策をしよう、業務改善をしよう、と国や教育委員会は声を大にして言っているわけですが、この意味付けでは不十分だと思っています。だって、部活動だって、自宅残業での採点作業だって、広い意味では子どもと向き合う仕事じゃないですか~?子どもと向き合うというマインドが多忙化を増幅させてもいるのです。

 

ぼくは、教職員の方になぜ多忙化対策に本気で取り組まないといけないのか、と問われれば、シンプルです。自分のため、という答えをします。

詳しくはこちらの記事もご覧ください。

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きょうはこれと似た話をします。みなさん、こういう言葉があるのご存じですか?

部活未亡人・部活孤児・部活離婚

いわんとしていることはお分かりですね。部活指導で休日もつぶして家庭を省みない教師とその家族を指した言葉です。

結婚式に参加すると、やはり感じるのは、自分の子どもの結婚式のときに感謝される親であるか?ということです。

もちろん、忙しくても子どもから慕われる親はいると思います。でも、やはり、かけた時間、一緒にいた時間と比例するところはあるのではないですか?

たとえば、部活だけが悪いわけではないけれど、教員のなかには、家族旅行なんてほとんど行ったことがない、という方がちらほらいます。まとまった休みが取れないからです。

もう少し申し上げます。学校の先生は、自分の担任クラスや部活の子どものことはほんとに大切にしていますが、わが子はどうですか?

とってもシンプルで当たり前のことなのですが、「わが子を大切にできる学校にしませんか?」そのことを今日は伝えたいです。

いま都市部を中心に、20代、30代の教員が増え、ちょうど産休・育休の方が増えています。それで育休明けのときに、安心して気持ちよく働くことができますか?というところが大事だと思います。少なくない方が育児復帰後、退職したり、精神的にしんどくなったりする例もあります。

おととい、教員勤務実態調査の結果が公表されましたが、いまの学校は、多くの人にとって、自分の子どもの育児をしながら続けるのは、むずかしいほど、過酷な労務環境です。自分の子どもを寝かしつけ、家事を片付け、少し寝て、4時に起きて授業準備をする、そんな女性教員もいます。

少なくないケースが教員同士で結婚し、それなら、部活の負担などは分かるだろうとして、男性側は仕事に邁進し、女性側に家事・育児負担を押し付ける夫婦もあります。

こういうことも調査したら興味深いデータになると思います。(だれか一緒にやりませんか?)

子どもには男女平等とか、男子も家庭科できないととか、社会に貢献できる自立した人材になろう、なんて教えておきながら、自身の生き方がどうなのかが問われていると思います。

もちろん、これは価値観、人生観でもあります。夫婦によっては、夫には家事育児はやらなくていいというところがあってもよいでしょうし、逆もありえます。

しかし、それは選択できればまだいいのですが、いまの労務環境では、ちゃんと選択できないままに、ずるずる行ってしまっている、そんな状況ではないでしょうか?

念のため補足しますが、子どもがいない教員にとっても、働きやすい職場であってほしいと思います。ただ、育児などを抱えながらも仕事がしやすい職場になれば、それは、子どものいない方にとっても、介護を抱えている方にとっても、かなりの場合、働きやすい職場となるはずです。

なぜ、いまの忙しい現状は放置できないのか。今一度、シンプルで素直にとらえてみてほしいと思います。

 

★きょうはここまで。感想などは気軽にどうぞ!

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