妹尾昌俊アイデアノート

妹尾昌俊アイデアノート~ステキな学校、地域、そして人たち

元気な学校づくりと地域づくりのヒントをお届けします!

本能寺の変と明智光秀の謎

戦国武将のなかでは、相当有名なほうに入る、明智光秀。しかし、彼の年齢はおろか、信長の仕える前の前半生はほとんど分かっていません(あまり史料が出ていないらしい)。信長をほうむった人物として、ドラマやマンガでは、信長とは対照的に権威や伝統を大事にする保守派であり、信長ほど過激でない人物(穏当な人柄)として描かれることが多いのですが、実際は、どうだったのでしょうか?

前々から疑問だったことがあります。そんな信長と対照的な人が、信長の側近中の側近となり、秀吉よりも評価されていたとも思われる人物であり、本能寺の変を起こすほどのことをするでしょうか?

なかなかその人となりをうかがい知るのは難しいのですが、タイムスリップできたとしたら、ぜひお会いしたい人物の一人です。そして、なんで本能寺したん?って聞いてみたいです。

ちなみに、宣教師ルイス・フロイスの当時の記録によると、光秀は次のような人だったそうです。

彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった ・・・ また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた。
※こちらのサイトから借用しました。(http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-37.htm

これが史実だったのかどうかは分かりませんが(フロイスが人づてに聞いたことを書いているだけかもしれないし、キリスト教に寛容だった信長を殺した人物として悪く言っているのかもしれない)、この人物像であれば、上記の疑問(光秀が信長に重用され、また本能寺の変を起こすほどの人物であったこと)に少し答えてくれたような気がします。

さて、この老獪な(本能寺の変のとき光秀は50代とも60代とも)光秀像に迫る一冊が、光秀の子孫だという明智憲三郎さんが書いた「本能寺の変 431年目の真実」です。帯には10万部突破とあり、歴史本ではたいへんよく売れているようです。たしかにすごく面白いです。小説ではありません。本能寺の変はなぜ起こったのか、どうして成功したのかについて、考察・検証している一般書です。


※以降、本の内容を少しメモしますので、本を読んでからにしたい人は、下記を読まないように!

【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)/文芸社
¥778
Amazon.co.jp


この本は、秀吉の時代に書かれた惟任退治記(これとうたいじき、これとう=光秀です)が、いかに秀吉の宣伝のためにつくられた話であったかなど、従来の通説的な見解を批判的に検討しています。とくに光秀が本能寺の直前に読んだといわれている句、
「時は今 天が下知る 五月哉」は、光秀の出身の土岐氏が天下をとる(「したしる」)という、つまり天下取りへの野望がうかがえる一句として有名ですが、別の写本では「下しる」ではなく、「下なる」とあるものもあり、そうすると、「五月雨が降りしきる」という意味になり、意訳しても、「土岐氏はこの降りしきる五月雨に叩かれているような苦境にある」であるとの解説。秀吉は句を偽造したのではないか、こいういう状況証拠があるといった展開は興味深いです。

また、信長と光秀の相性は悪く、信長は光秀は事あるごとにいじめていた、そのため光秀は信長を怨んでいたといった、今の世間の一般的な見方は、当時の信頼できる史料を読むとないこと(むしろ信長は光秀を重用していたこと)、光秀はかつて細川藤孝の家来だったことなども解説されています。

僕は歴史の専門家ではありませんが、第1章から3章までの通説批判、また本能寺の変に至るまでの状況、盟友の長宗我部の危機や信長の明出兵構想などを扱った4章から6章は、かなり丁寧になされていると感じました。

しかし、問題は、筆者の持論を展開する7章以降です。持論はたいへん面白いのですが、当時の史料が少ないこともあり、推論が多いのです。この本は6章までと7章からが相当違った性格です。本能寺の変が起こらないと、長宗我部家が滅亡しかねなかったので、同じ土岐氏の流れをくむ長宗我部家を救うことが本能寺の変の遠因というところまでは、他の論者も言っていますし、僕もそうかもしれないと思うのですが。

筆者の主張を要約すると、本能寺の変の筋書きは次のとおり。

○信長は家康を脅威(自分の子どもの時代になると家康にやられるかもしれない)に感じたため、京都で殺そうとしていた。家康に警戒されないため、本能寺にはわずかな家来しか引き連れなかった。信長の毛利攻めも、家康を油断させるカモフラージュ。


○光秀を信頼していた信長は、光秀に家康を殺させ、その後、光秀に徳川領を攻めるよう指示していた。


○光秀はそこを逆手にとって信長に反逆した。天下統一がなっても、その後朝鮮や明への出兵がなされたのではたまらない、どこかで信長を止めたかった。


○なお、光秀は安土での家康接待のときに、家康と密談し、この作戦を相談していたのではないか。


これは、正直、ほんまでっか?的な話です。たしかに、本能寺の変のときの明智軍にいた一兵の記録として、まさか信長様を討ちに行くとは思わなかった、てっきり家康殺しだと思っていたとの話が残っているのですが、それを根拠にはできますまい(一兵卒がそう思ったということと、首謀者の光秀がどうだったか、ましては信長がなにをたくらんでいたかは分からない)。


家康との同盟も、武田氏滅亡後はメリットがなくなり、家康は脅威でしかなかったという考えも、疑問です。家康は同盟者といえ、このころ、実質的には信長の家臣的な存在になっていて、しかも、部下には優秀なやつがたくさんいましたから、信長にとっては、光秀や秀吉同様、家康もまだまだ使えるやつだったはずです。現に、天下統一には、北条氏や東北地方も残っていましたし。


また、本当に家康殺しをやるのなら、本能寺でやる意味が分かりません。安土城で歓待していたときはなぜスルーだったのか。それに、周りを織田氏の領土で囲まれた京都なのに、家康が本能寺で信長に切りかかろうとした(だから殺したという設定に信長はしたかった)、なんてことは無理がありすぎると思います。


この本が面白い仮説を立てているのはたしかですが、なかなか納得できるものには僕には思えませんでした。
人間の心のなかは、そう見れませんし(同時代でも)、記録にもそう残るものではありませんから、どこまでいっても、あと何十年たっても、本能寺の変は謎のままかもしれません。


◎わたしの以前書いた関連記事です。

信長の最後の言葉?是非に及ばずの真意

「信長の政略」は信長のイメージを変える本

「任せる」ということについて 古代ローマ、古代中国、日本の戦国の共通点

広告を非表示にする