妹尾昌俊アイデアノート

妹尾昌俊アイデアノート~ステキな学校、地域、そして人たち

元気な学校づくりと地域づくりのヒントをお届けします!

家庭や社会のゆとり

ちょっと久しぶりに更新。元気にしてます!

昼間はフェイスブック上で、美味しかったご飯の話ばかりしてましたが、夜はすこしお勉強してます(ご飯ばっか食べてません!)。

ちょっと調べ物をしていて、いわゆる「ゆとり教育」を提案した1996年7月の中教審答申を改めて読んでみたところ、次のような一節がありました。

我々は、[生きる力]をはぐくんでいくために、これらに共通のものとして、子供たちにも、学校にも、家庭や地域社会を含めた社会全体にも[ゆとり]が重要であると考える。


ゆとり教育については、よのなか的には、その後大変厳しく批判されてきたわけですが、この答申の部分、いかがでしょうか? ゆとりは、子どもや学校にだけではなく、家庭や地域にも必要だと言っていたんですね~。そうしないと、家庭や地域も含めて、子どもに多様な経験をさせて、子どもをより豊かにしてくってことなんてできないだろ、と。

なるほど。僕は興味深いロジックだと感じました。就職にしても、企業の生存にしても、厳しい競争の中で私たちは生きていること、またいろんなことがテクノロジーとサービスの高度化によって便利になる分、さらなる効率化が志向されている社会にあること。そうした環境の中で、ちょっと立ち止まってよ、もっとゆとりをもとうぜ、という話は、大変面白い。20年近くの答申なのですが、今のにあっても不思議ではない気もいたします。

貧困問題に取り組んでいる湯浅さんが個人にも社会にも、”溜め”が少なくなっているのではないかと問題提起していることにも通じる話だと思います。

しかし、ゆとりが必要と言われても、”どうやったらそうできるんだ?”というところが問題ですよね。上記の答申では社会全体での意識改革と言っていますが、いや、意識がそうすぐに変わるなら、だれも苦労しないと思ってしまいます。

実際、ゆとり教育については、学校現場では、理念は崇高だけれども、実際なにをやったらよいかわからないという反応が多かった、と教員から聞いた(本でも読んだ)ことがあります。

皮肉にも、その後、なんとか教育って、増えまして、やれ、環境教育だ、キャリア教育だ、食育だ、コミュニケーション教育だ・・・などなど。子どもにはゆとりよりは、もっと高度な能力の育成を社会も、学校も、私たちも求めてきたのかもしれません。それは、おそらく、新卒者に企業は、即戦力や素晴らしいコミュニケーション力を求めるといったようなことが典型でありますが、
家庭の側や社会の側にゆとりが、さらになくなってきたがゆえなのかもしれません。

とくに結論があるわけではないのですが、かなり気になったのでメモしてみました。