妹尾昌俊アイデアノート

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(読書ノート)戦国武将の明暗

戦国時代好きなので、新書などで読みやすい新刊が出るとかなりの頻度で買ってます。本郷和人先生の『戦国武将の明暗』本月出たばかり。本郷先生と言えば、マンガ「センゴク」のアドバイザーや大河ドラマ平清盛時代考証などもなさっていました。既存の通説に、ほんまにそうか?、限られた史料と論理的に推論するとこうじゃないか?ということはバシバシおっしゃるタイプ。僕はちょっとファンでして、『戦いの日本史』という本もおススメです。

さて、本書は週刊誌に連載していたエッセイ的なものをまとめたものですし、読みやすいです。話題は多方面に及びますが、僕としては、1章~3章の関ヶ原の戦いの考察がおススメです。

小早川秀秋は合戦の途中で裏切ったわけではないのでは?という問題提起をしていますが、そう推論する背景のひとつとして、家康の論功行賞のクセをもっていくるあたりが面白い。つまり、家康としては豊臣系の大名はなるべく多くつぶしておきたいところ。関ヶ原の戦いの後の論功行賞で、とさくさにまぎれて東軍についた朽木氏は減封、小川氏と赤座氏は取りつぶし。一方、小早川は30万石から55万石へ大幅アップ。ここまで違うのは、小早川がはじめから裏切る段取りだったと考えたほうが自然という。

この小早川の動きについては、先日紹介した白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』にも詳細が述べられています。吉川広家の書状案によると、石田方は小早川の逆意がはっきりする状況になったので、大谷吉継の陣は心もとなくなったということで、大垣城から移動したのだそうです。小早川の裏切りは東西どちらにも知られていたことだったのかもしれません。


(読書ノート)関ヶ原合戦の真実

実際、
『戦国武将の明暗』でも、小早川が関ヶ原で陣取った松尾山は当時は山城。この小早川と大垣にいる家康に石田三成は挟撃される危険性があったので、大垣城を出たのではないか、その結果、関ヶ原の合戦は、当初から計画されたものではなく、そうした流れの中で起こったものではないか、と述べられています。

この点は、まだ僕はモヤモヤしています。だって、いくら挟撃だからといって、大垣城に籠城しているほうが、三成にとっては安全だったんじゃないか?時間が経てば、大坂城毛利輝元が来る可能性は低かったかもしれないけど、大津城をせめていた立花宗茂(この武将がまたとっても面白い人物ですが)らが駆けつけてきた可能性は高いし。このあたりはまたぜひ他の本や今後の研究成果も見ていきたいです。


『戦国武将の明暗』の第2章は直江兼続について。家康くんに喧嘩を売る、めちゃ度胸のある武将。で、聡明なイメージのある兼続や上杉景勝は、関ヶ原の戦いのとき、なぜ江戸方面に攻めなかったのか(山形方面の最上と戦いました)のか等についても考察していて、興味深いです。

なかなか史料だけでは歴史のなぜ?ってところにたどりつかないところがある。しかし、史料を軽視してはテキトウな思いつきの推理になってしまう。このあたりがなかなか難しいところですし、歴史のお勉強のおもしろいところです。

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