妹尾昌俊アイデアノート

妹尾昌俊アイデアノート~ステキな学校、地域、そして人たち

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【本気で考えて実行しよう】総合の時間の一部を英語にしてええの?

今朝の読売新聞の報道によると、新学習指導要領で時数が増える小学校英語(外国語活動)は、来年度からの移行期間中、総合の時間の一部を使ってよい、ということになるらしい。

2020年度に実施される次期学習指導要領で小学校の英語が教科になることに伴い、文部科学省は18年度から2年間を移行期間と定め、授業時間確保のため、「総合的な学習の時間(総合学習)」の一部を「英語」に振り替える措置を容認することに決めた。

今夏にも関係省令を改正する。教員の多忙化もあり、授業時間を増やせないと判断した。

www.yomiuri.co.jp

賛否ある話だと思うけど、最初この報道を見たときは、耳を疑った

こうして総合的な学習の骨抜きがさらに進むのだろう。

だいたい、現状でも、学校行事もかなりあって、総合の時間は使われていると聞く(学校にもよるでしょうけど)。たとえば、運動会は体育のためだけではないとはいえ、体育の時間だけでは足りないので、総合の時間などを使って準備をする。ソーラン節をやることが総合的な学習だろうか、かなりギモンなのだが、そういうことをちゃんと説明できる学校や教育委員会は多くいるのだろうか?

つまり、総合的な学習について、理念はよいとしても、既に運用はその理念についていっていない現実もあるのではないか?上記の文科省の容認措置は、このような現状の骨抜き傾向を加速させることになりかねない。※下につづきます。

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新学習指導要領は、答えのない問いに立ち向かう力や、協働して問題解決する力を伸ばすことに、趣旨、主眼がある。以下は、わたしの研修でも度々引用する、中教審の答申の重要な箇所だ。

解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解いたり、定められた手続を効率的にこなしたりすることにとどまらず・・・・主体的に学び続けて自ら能力を引き出し、自分なりに試行錯誤したり、多様な他者と協働したりして、新たな価値を生み出していくために必要な力を身に付け、子供たち一人一人が、予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすることが重要である。
中央教育審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」(平成28年12月21日)

 

現行の指導要領でも、この側面はあるが、新学習指導要領でより強調されている問題意識、理念であると思う。総合の時間は、この趣旨に親和性がある。つまり、決まった答えを効率的に出すトレーニングではなくて、自分なりに試行錯誤したり、他の児童や場合によって地域の方等と協力して課題に取り組む学びになる場だ。

言い換えると、アクティブ・ラーニングだって、もちろん英語(外国語活動)でやってもいいのだが、総合の時間がもっとも自由度高く、深くできるはずではないか。
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ビルド&ビルドで、学校のやることをどんどん増やしていくのは、どうかとは強く思うのだが、だからといって、総合の時間をもっと軽くしてよい、というのは、21世紀を生き抜く力という意味では逆行する措置だと思う。

ただし、総合の時間を、主体的な学びや深い学びの時間にしようとしたら、教師の側に相当時間の手間や準備がかかる。そんなことは当たり前の話。

小学校の先生はすでに10教科といった準備をしていて、タイヘンだ。この記事でも、先生たちの多忙が背景として語られている。

たしかに小学校現場が悲鳴をあげる事情ももっともだ。

  • 英語は、時数を増やしてもっとがんばりましょう
  • 総合などでは、主体的で対話的で深い学びもできるといいですね
  • 道徳も教科化しますんでよろしくね などなど

この理想論を本気で実行しようとするならば、「総合の時間の一部で英語やってもいいですよ」は、解決策ではない

本来は、教科担任制に近いかたちで、たとえば、A先生が5、6年生の国語、算数、理科をみます、B先生は社会、総合、道徳を見ます、C先生は英語専科で3~6年の外国語です、みたいにすることだと思う。そのほうがしっかり授業準備できるだろう。

もちろん、教員定数とそれに伴う財源の問題はある。人を増やせずに上記のような工夫をできる余地がまったくないわけではないが、かなり大変だろうと推察する。
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そうしたなか、苦肉の策として、移行期間中は、総合の時間の一部を英語にしてよい、という話になったのだろう、とは推察する。しかし、本来の趣旨を形骸化させる手段に走るのはいかがなものか。

つまり、なんだろう、モヤモヤするのは、今回の話には、国側の本気度が伝わってこないからだ。繰り返しなるが、本気で、子どもたちの問題解決力等をもっと伸ばす学校教育にしたいのであれば、もっと別のところで政策手段と財源的な措置を考えていくべきだと思う。中教審は高い理想を言ってますけど、現場ではテキトウでいいっすよ、ではないはずだ。

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問題は、国の対応だけではないと思う。忙しいなどの事情はあるだろうが、多くの小学校や中学校で、新学習指導要領の話など、上の空のことだとも聞く。つまり、「英語の負担が増えて大変だな、どうするよ~」はみんな知っているし、話題にもなるのだが、今日引用したような理念は、一般の教員の多くは知らないし、校長等ですら、ちゃんと捉えていない学校もあるように思う。(いや、そんなことない、という学校もあるでしょうけど、それはいい学校だと思いますよ。)

国や教育委員会がゆるい話をもってきても、「うちの学校は、こういうビジョンで総合の時間は活用しますから」としっかり言える校長は、どれだけいるだろうか?

 

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