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(読書ノート)関ヶ原合戦の真実

これだから、歴史のお勉強はタイヘンだ。自分が史実だと思っていたことが、フィクション(=作り話)に過ぎなかった、と言われるのだから。白峰旬さん(歴史学者)の『新解釈 関ヶ原合戦の真実』は、関ヶ原合戦の虚実について解説した本だ。

本書の帯がうまく要約している―「小早川秀秋は開戦と同時に裏切り、石田三成方は瞬時に敗北した」。

「えっそうだったの?」「学校で習ったことと違う!」と、ほとんどの日本人が反応しそうな説だ。本書によると、私たちが広く信じている関ヶ原の戦のストーリーは、江戸時代の中期や後期に作り上げられたフィクションだという。典型的なのは、立場を鮮明にしない小早川秀秋に家康が鉄砲を撃ちかけたという話、これは合戦から80年以上経た1686年以降の史料にしか出てこない。

要するに、徳川史観(神君家康はすごい!)を強化するためにでっちあげられた話に、私たちは乗せられていたというわけ。まったく、感想を一文字で表すと、怒!である。

小早川の裏切りについて、合戦当時に近い史料を読むと、次のようである。

『当代記』(成立年不詳だが1623年頃)
関ヶ原には石田三成宇喜多秀家大谷吉継島津義弘小西行長が今まさに陣を敷こうとしたところへ、小早川秀秋が家康の味方に属したので、敵は敗北し、数百を討ち取った。(本書p16)

石川氏・彦坂氏の書状(関ヶ原合戦の翌々日の9月17日付)
戦いをまじえた時(開戦した時)、小早川秀秋脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子の四人が(家康に)御味方して、裏切りをした。(本書p81)

イエズス会の報告にも開戦後間もなく裏切りがあり、合戦は短時間のうちに終わったとの記述があるという。

10万人近いの両軍が対面した天下分け目の一番も、実はあっけなかったのかもしれない。「事実は小説よりも奇なり」というが。。。

ただし、本書を読んでいて、いくつか疑問に思うこともあった。専門家でない私が言うのもおこがましいが、戦国好きなので、あえて、3点コメントする。

1.17世紀後半以降の史料で書かれたことがフィクションである、と断定できる根拠はなにか?
本書の基本的なロジックはこうだ。

合戦当時に近い史料(=A類)の記述を信用する。

17世紀後半など、合戦から百年近く経って描かれたこと(=B類)で、A類に記述のないものは、後世になって付け足したフィクションであろう。

明治期の参謀本部が解説した歴史本ではB類を参照している。さらにこれを戦後の歴史家の多くも参照して、広く誤った説が通説化してしまった。(これまで歴史学者なにやってんねん??)

以下、感想。たしかに、B類よりもA類のほうが信憑性が高いのだろうし、そんなことは歴史学では常識だと思う。しかし、かといって、B類をすべて捨ててしまってよいものか?

A類の史料の中にも、作者の誤解や意図した誤報が含まれていたり、当時は常識的だったこと、あるいは当時のタブーなことがハショられている可能性だってある。B類はそこを補完している可能性だってあるではないか?

たとえば、本能寺の変の後、秀吉はなにをしたかと言えば、信長は生きているという手紙を送ったことだった。この書状をもとに、当時の一次史料なので、信長は生きていたというのが正しい、とするのはもちろん誤りである。

うがった見方をすれば、家康にとっては、秀忠も来ていない中で、関ヶ原が正午までかなり接戦で、豊臣恩顧の福島正則らが奮闘したと書くわけにはいかないのである。小早川の内応がうまく進み、すぐに合戦は終わったと宣伝したほうが家康にとっては有利だった(まあ、これは家康の命を受けた黒田長政の功績かもしれないが)のかもしれない。


2.筆者には限られた事実をもとに安易に断定するクセがある
私にとって、本書で最大の不満のひとつは、次の個所だ。関ヶ原に参戦した生駒氏の書状の中で激しい白兵戦が描かれていることをもとに、戦国時代は弓や鉄砲での遠戦志向が強かったという説は間違いである、と述べている。しかし、これは議論の仕方として、素人からみてもおかしい。

・たったひとつの合戦の記録、しかもある人物の局地的な見方の書状をもとに、戦国期に遠戦志向が強かったかどうかなんて断定できない。
・生駒氏が自身の武勇を自慢・宣伝するために、鑓働きを強調した可能性がある。
・筆者が信憑性が高いとする当代記によると、関ヶ原合戦当日は雨が降り、霧が深かったという。そんな状況では、味方を殺しかねない鉄砲・弓矢は控えるはずだ。当時の鉄砲は命中率が低く、雨には弱かったというから、なおさらである。

このように、筆者の議論の中には、あるエビデンスをより広い議論に展開し、断定するクセがあるように見受けられた。

3.石田方は小早川の裏切りを予想しながら、なぜ大垣城を出て、そしてすぐ敗退したのか?
本書p78~にも紹介されているように、吉川広家の書状案によると、石田方は小早川の逆意がはっきりする状況になったので、大谷吉継の陣は心もとなくなったということで、大垣城から移動した、という。

そこで、疑問なのは、石田方はなぜ、危険が迫る大谷隊に退却を命じたり、大垣城か三成居城の佐和山城に入れと言わずに、関ヶ原に向かったのか?という点だ。合戦は数が優勢を決めることは、今もそうだけれど、当時も常識だったはずだ。ましてや、小早川の裏切りが予想されたのであれば、石田方は圧倒的に数で劣る、そんな中に野戦に行くのはアホである。

関ヶ原の合戦の最大の謎のひとつは、なぜ数的なアンバランスがある中で、野戦として開戦したのかであると思う。私の仮説としては、案外、偶発的な合戦だったのかもと思っている。というのは、上記の記録のとおり、当日の濃霧で見晴らしがきわめて悪かった。これは、川中島の戦い(第4次)にも似ている。たまたま、ぶつかってしまったのではないか?



以上、疑問も残ったが、とても有意義で面白い一冊だった。歴史学者の中でも論争やさらなる検証作業が進めばと思う、今後の成果にも注目したい。

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