妹尾昌俊アイデアノート

妹尾昌俊アイデアノート~ステキな学校、地域、そして人たち

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大河ドラマ真田丸を楽しむ、ちょっとウンチク

大河ドラマ真田丸は、本能寺の変の年(1582年)、武田家の滅亡から始まりました。

今回は武田勝頼がすごく人間味ある人物として描かれていて、好演でした。でも、武田家があっという間に滅亡してしまうのを見ると、「信玄のときは戦国最強の軍団って言われてたのに、なんだ、勝頼はやっぱり頼りないな」、「勝頼には信玄のようにカリスマ性がなかったから、家中をまとめられず、親戚筋にも裏切られたんだ」などという二代目批判が必ず出てきます。ドラマの中でも、「信玄を超えられなかった」と言ってましたね。

しかし、これらの批判は、間違っているわけではないのでしょうが、本質をついているようには、僕には思えません。歴史にIFは禁物と言われるけれど、仮に信玄が長生きしていたとしても、武田家が大丈夫だったとは言い難い、と僕は思います。

というのは、武田家が窮地に陥ったのは、外交の失敗という側面がすごく大きいからです。上杉謙信の死後、彼は子どもがいなかったので、養子の2人で跡目争いが起こります(御館の乱)。その一方(上杉景勝)に、武田勝頼は味方したのですが、そのために、上杉家とは仲良くなったものの、跡目候補のもうひとり(上杉景虎)の出身だった北条家とは険悪になります。

これをきっかけに北条氏徳川家康と結びつき、武田攻めでは織田家とともに、北条・徳川も攻めてきました。この同時多発侵略に武田家は対応できなかったというわけです。

実は、これとかなり似たようなケースが信玄のときにもありました。もともと、武田・北条・今川は三国同盟の関係にあったのですが、今川義元桶狭間で倒れた数年後、信玄は今川家との同盟を破棄して駿河に侵略。これに怒ったのが北条家で、長年敵対関係にあった上杉謙信と結びつき、信玄を攻めようとします。このとき、信玄は相当ピンチだったらしく、このままでは武田は滅んでしまいますと、信長に泣きついて、和睦を斡旋してもらい、なんとか切り抜けました。

このように、上杉も強力だけれど、関東一円を支配する北条も、武田にとっては、コワイ存在なのです。そして、信玄のとき以上に、勝頼のときに織田信長はより強大になっていたのですから、古代中国の春秋戦国時代の合従策と同じく、セオリーとしては、武田氏は周りと同盟を組んで織田家と対峙する必要があったと言えるでしょう。

勝頼は、一時期、上杉、北条ともに同盟関係をつくろうとしましたが、うまく続かなかったようです。この背景は僕は勉強不足なのですが、北条との関係構築の失敗が武田家の命運を縮めてしまったと言えそうです。

同じく外交について、結果論かもしれませんが、織田信長のほうから見れば、徳川家康を対武田・北条の盾にも矛にも使っていたという点は、うまい手だったと評価できるのかもしれません。この点をドラマではうまく言っていて、家康の台詞の中に「あんなに苦しめられた武田家が滅んだというのに、なぜかいっこうに嬉しゅうない。」

追伸:
ドラマの2回目では、武田家を裏切った穴山梅雪のことを家康は好かんというシーン。家康はわが家からはこういう裏切り者は出したくないものじゃ、と言った後で、石川数正が「徳川家は一致団結して」と言いますが、その石川は後に家康が秀吉と戦うときに裏切りますので、皮肉の利いた台詞です。このように、いくつか分かる人には分かるコネタが伏せられているようですね。