先日地下鉄の車内広告で、”検索に疲れていませんか?””検索より探索!”という文句があって、うまいこと言うなあと思った。
たとえば、職場で飲み会の幹事になったとき、あるいは彼氏・彼女とデートするとき、たいていの人はグルメサイトを検索して、点数をチェックするのではないだろうか?これはすごく便利だし、無難ではあるのだが、他人の付けた評価とコンピュータのアルゴリズムに従っているだけ、と言えば言い過ぎだろうか?
というのは、たとえば、旅先で。ぶらぶら歩いて、ひょんのことから立ち寄った店で、美味しいものに出会ったときには、ちょっとした感動があって、検索結果に沿ったときとは違った面白みがある。自分の頭と体でハンティングする、われわれの祖先がずっとやってきたことの力を、ちょっとだけ思い出したりする。
本などもそうで、ベストセラーや話題の一冊、またアマゾンなどで履歴等をもとにレコメンドしてくれる本は、ハズレは少ない、無難である。しかし、ぶらぶらリアル本屋を歩いているなかで見つけた本のほうが当たりハズレはあるが、デカイものが来たりする。
将棋の羽生善治さんが面白いことをおっしゃっている(プレジデントオンラインのインタビュー記事)。
(引用/)
将棋では、過去に習い覚えたことがまったく役に立たない場面がしばしばあります。羅針盤が利かない状態が起こるのです。そうなると勘に頼るしかないのですが、世の中が便利になり、生活が快適になるほど、その勘は鈍っていくように思われます。ですから、勘を磨く習慣やトレーニングが必要だと思います。何をするかというと、「羅針盤の利かない」状況にわざと身を置くことです。
それほど大げさなことではありません。たとえば私は、初めて訪れる待ち合わせ場所などには、しばしば地図を持たずに行きます。住所だけを頼りに、頑張って考えたり、人に聞いたりしてこっちかな、あの道だなと勘を働かせながら歩くのです。昔はそうするのが必然でしたが、今はそういう機会は意識的につくらないとなかなかありませんね。
(/引用おわり)
僕は日ごろはオフィスワークだし、家でもゴロゴロしているのが好きなインドア派だけれど、たまに野生の勘をちょっと磨くのは面白いと思っている。
というのは、子どもの頃、夢中になった昆虫採集はまさに”検索より探索”の世界だったからだ。動物の森でもモンハンでも、ゲームは面白いと思うが、使うのは視覚中心だ。昆虫採集だと、もっと五感を使う気がする。カブトムシがいそうなところは、慣れてくると臭いでわかる。スズメバチやヘビにも出くわしかねないので、耳と目も、触覚も使う。さすがに食べなかったので、味覚は使わなかったが。
あまり大げさなことを言うつもりはないが、自分の子どもを見ていても、もっと勘や野生を鍛える場にいられるようにしたほうがよいのかなと思うときがある。
ところで、写真は先日おうちでやった牡蠣バーベキューパーティーの様子。こういう火を使ってワイルドに食すのも、ちょっと野生の世界。貝殻を見ながらそろそろ食べごろかなあとか、みんなでたらふく食べた後の貝殻を見て、これぞ貝塚とか言いながら。ニンニクとオリーブオイルを付けたのや、白ワインでかるくいぶったのもうまかった。