大河ドラマ真田丸から学ぶ会議の技術
先日の真田丸「反撃」は、大坂冬の陣の後の和平交渉が描かれていた。前もブログに書いたように、今回の大河ドラマはやはり、会議のシーンがとても面白い。僕は合戦の派手なシーンよりも、好きだ。さすが会議好きの三谷幸喜さんらしい気がする。
しかも、史実上でもそうだったらしいが、双方女性たちが和平交渉をした。
和平会議にもっとも影響したのは牢人問題
大坂冬の陣の後、大坂城の堀(外堀、内堀)をすべて埋めてしまうというのは、かつては、狡猾な家康が豊臣方をだましたものだと信じられてきた。しかし、最近の研究では、豊臣方も同意した結果であったという説も有力になっている。今回の大河では、その有力説を踏まえた展開となっていた。
大事なのは、ドラマで描かれていたとおり、大坂城に詰め寄せた牢人たちをどうするかであった。豊臣方としては、彼らのおかげで冬の陣は戦えたのだが、牢人たちをそのまま雇用するほどの経済力はない。
経済力は重要な背景情報で、このときの豊臣方の領地はかつてのものとは違う。秀吉の時代~大坂の陣以前は、各地に散らばっていた御料地という直轄領があったのだが、大坂の陣のときには御料地を徳川方に抑えられていたので、大幅に収入減であったのだ。おそらく金山・銀山もだろう。
だから、豊臣方としては牢人たちは早く立ち去ってほしい。一方の徳川方も、牢人たちが居座ったままでは、いつまた反抗してくるかわかったもんじゃない。
この双方の利害が一致した結果、大坂城が丸裸になれば、さすがに牢人たちも反抗するのをあきらめるだろう、という和平合意であった、という説だ。ドラマでも大筋その点が描かれていた。
ところで、歴史うんちくはこのへんとして、ここまでの下りで、会議の作法、技術として学ぶべきことがあると思う。3つに絞って少し説明しよう。
①結果の文書だけ見ても一部しかわからない。
今回の和平の合意文書には、この堀の埋め立てについては明記されていない。つまり、口約束であったわけだ。文書だけ見ていたのでは、認識を誤る。
本当に大事なことは、文書に表れないこともある。これはよくご存じのとおり、現在も同じだ。オフレコの情報にその人や組織の本音が隠れていたりもして、そこを踏まえないと、なかなかうまく事が進まないということもある。
公的な会議でさえ、ここは会議録には書かないでほしい、ここだけの話ですよ、などとと発言する委員もいる。
ちょっと飛躍するが、セブンイレブンには2週に1回、全国店舗指導員(FC)会議というがあって、何十億単位の交通費をかけていることで有名だ。これも、文書だけでなく、直接語り、伝えることの重要性を認識しているからだろう。
ましてや、戦国時代は生きるか、死ぬか、明日をも知れぬ世の中。本当に大事なことは口頭でということは多々あった。実際、この時代の手紙を読むと「仔細は取次役の○○が伝えますから、よろしゅう」といった文言がたびたび入る。だから、史料は大事なのだが、史料だけをみていて安心できない。
②何が決まらなかったかも重要。
ドラマでも描かれていたとおり、今回の和平では、大坂城に立てこもる牢人たちは罰しない、ということは決まった。しかし、だれも雇い入れるとか面倒を見るとは書いていないし、言ってもいない。
ここが重要だ。つまり、牢人問題は豊臣方の問題であり、勝手にしろ(どうせそこまで経済力がないのだから、さっさと手放せ)と家康は言っているのである。
③次の一手、二手が大事。
会議はやった後こそ大事だ。将棋ほどではないけれど、合意した後の次の一手、二手の想像力が欠かせない。次の事態がシミュレーションできる。
★ケース1:大坂方が牢人たちを放出した場合
反対を押し切って牢人たちを正式に解雇
⇒行き場を失った者たちが大坂方に反抗
⇒豊臣氏の軍事力では抑えきれない
⇒統治できないということで、豊臣氏を処罰
★ケース2:大坂方が牢人たちをとどめた場合
大坂城に牢人たちがたむろしたまま
⇒徳川幕府にまた反抗しようとしている。和平合意を踏みにじっている
⇒豊臣氏を処罰
このように、豊臣秀頼にとっては、どちらの場合も、窮地であった。ただし、史実を追う限り、家康は最後の最後まで秀頼たちを殺す気ではなかった風もある。歴史でIFは禁物というけれど、ケース1を選択して、大坂から立ち退き、どこかへ領地替えに応じていたら、豊臣氏は生き残った可能性はあるだろうと思う。
以上3点に整理してみた。現実のわたしたちの会議はどうだろうか?
「結果だけを見て、あれこれ論じる。決まらなかったことを見落としてしまう。会議して満足してしまい、次の一手に無関心。」なんてことにはなっていないだろうか?
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