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(読書ノート)教育という病―子どもと先生を苦しめる「教育リスク」

必読の書などとエラそうに言うつもりはないんだけど、内田良先生の先日出たばかりの新書『教育という病―子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』は、教職員や保護者にはほんと強く、おススメです。

正直、読むのはかなりしんどい一冊。内容はむずかしくありません、誰にとっても読みやすい、たぶん高校生くらいでも。しんどいと書いたのは、本書では、我々が教育という名のもとに、見ようとしてこなかった現実を可視化するからです。

たとえば、運動会でピラミッドをつくるような組体操。見ている人は、わあーすごいと感動するのですが、実は後遺症が残るような深刻な怪我・障害につながったケースが2012年度だけでも、小学校で3件あるそうです。学校も、また保護者もこうしたリスクについて、知らない、または知っていても感動という名のもとに過小評価してしまう。感動や一体感を出したいなら、もっとリスクの少ない種目をやればよい、という筆者の主張は納得できました。

同じような構造が二分の一成人式にもあると指摘します。うちの長男も数カ月前にこれをやったばかりですし、身につまされます。10歳になって、親に感謝しようということ自体は悪いことではないのでしょうが、それを学校行事の中で強制し、虐待を受けた子のことや親がいない子への配慮はどこへ?それは、大勢にとっては二分の一成人式がお涙頂戴の感動ものだからということで、かき消されてしまうという現実。

次の一節がとくに心に残りました。

教育という「善きもの」は善きがゆえに歯止めがかからず、暴走していく。「感動」や「子どものため」という眩い教育目標は、そこに潜む多大なリスクを見えなくさせる。(p4)


僕はこの本を読みながら、何度も、次のカエサルの言葉がよぎりました。たしか塩野七生さんも、好きな言葉とおっしゃっていたと思います。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」
「始めたときは、それがどれほど善意から発したことであったとしても、時が経てば、そうではなくなる。」
ユリウス・カエサル(「ローマ人の物語」の何か所かで紹介されていますが、どこだったかなあ・・・)



このカエサルの言葉にもありますし、本書でも強調されていますが、我々は、教育活動の中でのリスクを見ようとしていない、ということが大きな問題としてあります。本書で紹介されている次の事例が対照的でした。

ある小学校では、児童の転落死をきっかけに、先生も保護者も悲痛な思いのなか、従来の学校安全対策の全面的見直しと、事故防止策の徹底に乗り出しました。
・・・新たに始められた取り組みの1つが、学校の敷地内で起きた怪我のマップをつくるというもの。まずは、養護教諭が、保健室を訪れた子どもの記録をもとに、学校敷地内のどの場所で怪我が起きたのかを整理します。そして、そのデータにもとづいて、保健委員の子どもが学校の敷地図のなかの怪我の発生個所に1つひとつシールを貼っていきました。
・・・養護教諭は、体育館や校庭にたくさんのシールが貼られることになるだろうと予測していました。しかし、「こうして調べてみたら、意外にも教室の怪我が多かった」と言うのです。
・・・PTAと教職員の敷地内の点検の際には、教室の点検が丁寧に行われています。
エビデンス・ベースドから負傷事故の発生状況を整理した結果、より効果的に事故防止を達成するための、新たな関心のあり方が生み出された事例です。(p.24-26、一部編集)


このように、リスクを可視化し、それを関係者で共有することの重要性が再認識できます。

私も、(もともとは東山田中学校のコミュニティスクールを運営する竹原さんからヒントをいただいたものですが)学校運営には、次のステップがあると申し上げています。

情報の共有→思いの共有→アクションの共有→学習の共有

まさにこの安全点検の事例では、情報の共有があって、思いの共有とアクションにつながったわけです。そして、このケースが重要なヒントを含んでいるのは、怪我の発生実態を養護教諭のもつ情報から可視化していったということ。つまり、学校または行政には、なんらかの情報が、整理されていないかたちにせよ、たまっている可能性もあります。そこをどう引き出して、活用できるか。リスクの可視化や気づいていないリスクの洗い出しができるところは、本書で提示されたもの以外にもまだまだあるような気がしてなりません。

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