”恋の仕方を忘れた大人に贈る恋愛小説”か?
平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』、堪能しました。先日初めてサイン会なるもの(この本の)に行ったので、普段以上に入りやすかったところもあります(息子の仮面ライダーのサイン会なら行ったことはあったけど)。
小説の感想を書くのは、読んでいない人にネタバレになっても野暮だし、むずかしいですね。そのへんは気をつけて書きます。主人公は38歳のギタリストの蒔野聡史と海外の通信社で働く40歳の小峰洋子。いわゆるアラフォーの2人の物語で、帯には”恋の仕方を忘れた大人に贈る恋愛小説”とありました。
なるほど、この表現は一言でよく表している気もしましたが、一方で、ちょっと違うなとも感じました。恋よりは、愛について考えた気がしたからです。なかなかうまく言えませんが、平野さんのサイン会のトークセッションでも、定義というわけではないけれど、「恋は瞬間的な燃え上がるもの。愛は継続性のあるもの、偶然をつなぎとめておくような」というお話をされていたのですが、その意味で捉えると、やはり、ありがちな恋の物語とはかなり違った味がします。関連して、次の台詞も印象的です。
偶然を、まるで必然であるかのように繋ぎ止めておくために、人間には、愛という手段が与えられているのではないか。(p.302)
過去は変えられるものか?
純粋に、物語の展開に引き込まれるのですが、エンターテイメント、娯楽的に楽しむ小説とも本書はかなり違います。僕にとって一番気になったフレーズは次のところ(蒔野が洋子に話すシーン)でしょうか。
人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?(p.29)
詳しくは書きませんが、この言葉の意味は、本書全体で響いてきます。誤読かもしれませんが、僕はこうも感じました。人は過去の経験について、時々、今の価値観や現在へのつながりのなかで評価します。「あの時のこの行動にはこんな意味があった(だから今思えばよかった)」とか、「あの時はもっとこうしておけばよかった、何でその価値に気づかなかったんだ、バカな俺」みたいになったりとか。卑近な例だと、受験勉強ばかりしてよかったと思うのか、悔いが残ると感じるのかなどをイメージしてもよいかも。
戦争といった甚大なものでさえそうですよね。「あの戦争で負けたから今日の日本があるんだ」とか現在の目線から過去をジャッジしてしまうときがあるけれど、その評価って時代や価値観で変わりうるもの。
ここで、僕は何を申し上げたいかと言うと、”過去を悔いてもしょうがない”ということではなく、同じ事象にも”いろんな評価の過去があるな、今の評価はまた今度変わるときもあるかもな”と、いわば、過去を”複数形で”捉えたほうが気が楽になるかも、ということです。
今度平野さんにお会いする機会があればうかがってみたいのですが、平野さんは分人という概念を提唱されていて(ざっくり言うと、パーソナリティはひとつではなく、複数形)、その点にも関わりの深い台詞だったのかも、と思いました。
本当に自分の人生の主役になりたいの?
次の台詞もドキッとしました(蒔野のマネージャーについて話すシーン)。
みんな、自分の人生の主役になりたいって考える。それで、苦しんでる。自分もずっとそうだったけど、今はもう違う。 蒔野さんの担当になった時、わたしはこの人が主役の人生の”名脇役”になりたいって、心から思った・・・(以下略) (p.186)
この言葉も、この後の物語の展開をあわせて考えると、意味深です。本書とは離れますが、自暴自棄になったり、自殺というのは、自分が主役の人生をやめたいということですよね。でも、本当に自分が主役の人生である必要はあるのか、そうありたいと思っているのか、別の生き方はないのか、あるいは、自分が主役モードのときと、別の人が主役モードのときを(あたかもTVゲームで切り替えるように)かえたり、複線的にもっておくことはできないのか、などなど、考える機会になっています。
以上、とくにまとまりはありませんが、とてもいい小説を読んだので、感想を書きました。ぜひお読みください~
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