映画『聖の青春』とドラマ『校閲ガール』の共通点
録画しておいた今週の「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」を娘たちと一緒に観た。毎回、純粋に楽しんでいるんだけど、どこかでぐっとくるシーンもあり、いつも、「仕事で大事なことってなんでしたっけ?」と考えさせられる。
ちょうど、昨日観た映画『聖の青春』とも重なるところもあった。『聖の青春』は下記のまとめサイトがわかりやすいと思うけど、29歳の若さで亡くなった棋士、村山聖(さとし)さんを主人公にしたノンフィクション的な映画だ。1990年代後半の話、羽生善治さんが七冠を達成した時期とも重なる。その超全盛期の羽生さん(そこから20年を経た今も羽生さんは強いことは驚異的だが)に勝ったこともあるのが村山さんだ。
公式サイトには、羽生さんらトップ棋士の応援コメントも載っている。
校閲ガールにも聖の青春にも共通するメッセージがある。それは、「その仕事に命を懸けるほどの情熱をお前はもっているか?」、「そんな情熱はあっても、困難がたくさん降りかかっても、その情熱をもち続けられるか?」だ。まさに村山聖さんは幼少期からの難病を抱え命を削りながら、長い対局を闘った。校閲ガールでは校閲という目立たない仕事で、希望した部署でもないのだが、主人公が全力で向き合っているシーンが描かれる(とくに今週は相手方の小説家が命をかけて執筆にかける姿もあった)。
何が、彼を、彼女をそこまでさせるのか?
「命を懸けられるか」なんてことを言うと、すぐブラック企業と叩かれるご時勢である。たしかに、命を懸けろと経営者や管理職が言うのは、どうかなと僕も思う。そんなこと強制されるのはご免だし、強制されても長続きしない。
しかし、どんな仕事であれ、自分にとってめっぽう打ち込めるものだとしたら、それはすばらしいことではないか?
※次の写真は次女の学校での作品
僕がここにビンビン感じのは、大きな会社を辞めて、ひとり立ちしようとしているから(まだまだビジネスには遠くて試行錯誤中だ)というのも大きいと思う。
僕としては、自分の仕事は、学校づくり(あるいはもう少し広く、地域づくり)で、がんばっている人の優れた実践を翻訳して(自分なりによく理解し、解説や価値を加えて)、その発展と広がりをつくる手助けをすることだと思っている(少なくとも今のところは)。
まったく青臭いと言われそうだが、自分としては大真面目なのだから、いいかなと思う。それで、数日前の記事でも書いたように、学校現場の方や支援している教育委員会の方らの話を聞くのはとても楽しいし、自分の吸収したことを(スポンジのようにうまく吸収できているかどうかはわからないけれど)、自分の考えたことも加えながら、記事にしたり、本にしたり、研修などで伝えたりするのも好きなことだ。
聖の青春では「なぜ将棋を指すのか」というテーマがたびたびのシーンで問われている。村山さんと羽生さんが2人きりで、あまり饒舌ではなく語り合うシーンは特に印象的だ。別に何か答えが映画の中にあるというわけではないのだが、考えるシーンだ。
また、映画の中で村山さんが「将棋は生きるか死ぬかの真剣勝負」と言うセリフも心に残る。これは病弱だった村山さんのセリフだから余計真に迫るものがあるが、多くの棋士にとっても一局一局は勝つか負けるかは分からない世界なのだろう。
村山さんや羽生さんよりずっと若い世代だが、羽生さんと互角の実力の渡辺明竜王は著書『勝負心』の中でこう書いている。
プロ棋士にとって最も精神的に厳しいことは何か?
「負けても次の対局に向けて勉強しないといけないこと」ではないか、と私は思う。(p.146)
私は、幼い頃から将棋が好きだった。「才能がある」とも言われた。
では、才能とは何か。
熱意こそ、才能である。
将棋で言えば、将棋の研究に時間をかけられる熱意こそ、才能である。
・・・(中略)・・・
しかし、熱意を持ち続けることは、そう簡単なことではない。
基本的に棋士は、日々、一人で研究を行う。
一人で気楽だ、ということはある。しかし、一人で研究を続けるのは、かなり苦痛な作業だ。さぼろうと思えばいくらでもさぼれるからである。まさに自分との戦いだ。(p.155,156)
渡辺さんの「熱意を持ち続けることは、そう簡単なことではない」という言葉は響いた。重病をおして生き抜いた村山さんもそうだ。病気なのだからとあきらめることはいつでもできたのかもしれない。しかし、最後まで続けた。これはすごいことだと思う。
ちょうど、『GRITやり抜く力』の書評を書いたこともあり、この熱意を持ち続けることについては、強く振り返った数日だった。
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打てば響く
先週、先々週はたまたま学校教育かんけいの出張、外出が重なりましたが、いずれの地でも問題意識が合い、意気投合する方と出会えました。
都市でも田舎でも、本当に人材はいるものだ、とは前職のときにも感じていましたが、最近も改めて実感しました。
こういう言い方をすると、偉そうに聞こえてもいけないですし、僕としては全国各地の学校の一応援団であり、偉ぶるつもりはまったくないのですが、”打てば響く”ということを感じます。こちらがモヤモヤ考えていたり、もっとこうしたらよいのになあと感じていたアイデアをお話すると、かなり話がはずんだり、その方が実践されているお話を伺ったりします。また、先方がある程度実践されて壁にぶち当たっているとき、僕のほうからも多少かもしれませんが、ヒントを申し上げることもあります。
- 悩んでいるのは、少しわかる気がします。この問題は企業や行政でもうまくいかないことが多いようです。学校ではなおさらチャレンジングですよね。
- 関連して、こういう実践がほかにはあります。こういう働きかけはすでになさいましたか?
- 壁や弱みと思っていることが、角度変えるとそうじゃないんじゃないですか?
といった話をするときもあります。
正直、全国にはいろんな先生や教育委員会職員がいます。かなり頭の切れる、スマートな方だなあと思う人もいますが、それよりも、現場感覚と優れた問題意識をもって試行錯誤しながらよりよくしていこうとしている方のほうに共感することが多いです。(一番いいのは頭も切れて問題意識と行動力もすごい人ですが)。
”打てば響く”方とお話するのはほんと楽しい。僕はそんなにコミュニケーション力があるわけではない(むしろ苦手なこともけっこうある)のですが、学校づくり関係はライフワークにしていて、ともかく好きで現場に入っていることもあり、問題意識や関心が共鳴するシーンが多々あります。
僕のミッションとしては、「そうした方の優れた取組をどう持続的に発展させるかを翻訳して、広げていくことだ」と再認識しました。「またこんど来てほしい、また飲みましょう」とおっしゃっていただけたのは嬉しかったです。関係者のみなさん、ありがとうございました!また再会しましょう!
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部活動の休養日は教育委員会が言わへんとできへんことなん?
今日はちょっと腹が立ったので、書いてみる。先ほど次のニュースを目にした。大阪府教委は多忙な教員の負担軽減のため、全府立高校と支援学校計182校で午後7時までに全校一斉に帰宅する日と、部活動をしない日を週1日設けるよう義務付けるとした。
これについて、みなさんはどう感じただろうか?たとえば、
- 教員の業務は別の日にしわ寄せがくるのではないか
- 午後7時に一斉帰宅って、その時間でええんかい?(定時帰宅なら17時過ぎとかのはず)。保育園迎えに行くなら7時帰宅ならアウトやろ。
- 結局持ち帰り残業になるのではないか
- やっぱ部活は休みが統一されてよいのではないか
- とくに府で統一してくれると、少なくとも部活の府大会レベルでは公平な環境になるのだから、よいと思う
- 週1部活を休みにしたところで、ほかの日に多く練習させたら、結局は同じじゃないか
などいろいろな反応があると思う。こうした取組はやってみて、それでまたいろいろ検証したらよいと思う。
しかしだ。僕がもっと問題にしたいのは、わざわざ教育委員会が統一的にやらないと、学校の自助努力は進まないのか、という問いである。
教職員の労働環境を改善したり、職場の風土をよくしたりするのは、国から言われて、とか教育委員会に言われて、という世界の話ではないはずだ。
そんなことなら、校長はなんのためにいるんだい?って話じゃないか?(写真は部活の夕暮れの風景。あなたの学校で、置き忘れているものは、ボールだけだろうか?)
そもそも部活は教育課程外なのだし、教育委員会が決めないとやめられない話ではない。各学校で休養日を設けたり、部活の数を減らしたり、いろいろ試行錯誤する(もちろん反対意見や保護者からのクレームもあるだろうけど)のが先だろうと思う。手当とか外部支援者に任せた場合の保険・保障問題などは、国や教育委員会が出てきて然るべきテーマだが、労務改善の多くは学校の裁量の中でもできることは多いはずだ。
結局、学校内外の合意形成ができずに、学校は決めたり、行動に移せたりできていないのか?決められないなら、なぜ管理職という職があるのか(管理していたらええだけとはちゃいまっせ)?
そんな学校で、正解がない、不透明な世の中をタフに、他人と協働して生きる子どもが育つのだろうか?
僕が『変わる学校、変わらない学校』で教育委員会の取組をほとんど書かなかったのはページ数の上限の都合もあったけど、もっと大きな理由があった。国からの権限移譲とか、教育委員会の取組を待たずに、学校で工夫できることってもっとあるでしょう、と考えたからだ。
あなたの学校は、「できない、できるわけがない」と思い込んでいるだけではないだろうか?反対意見が来るからという理由で、ほかの方法や説得方法を立案しない思考停止になっていないだろうか?
このニュースを見て、僕は少し暗澹たる気分になった。”変わらない学校、変われない学校”のほうが多いということだろうか?
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幼保小中高連携した御前崎のスクラム教育
先日、静岡県の御前崎市を訪問しました。篠田教育長が『変わる学校、変わらない学校』をお読みいただき、そのご縁で教育委員会と校長会共催の研修会に呼んでいただいたのです。
原子力発電所と地震・津波対策の影響
御前崎には中部電力の浜岡原発が立地し、大地震が起きると5分で津波が到達する可能性も指摘されています。学校では抜き打ちなども含めて年に5回も6回も避難訓練をしています。サーフィンにも適した素晴らしい海と波があり、マリンスポーツ体験などを子どもたちにももっとしていきたいところですが、当然、地震が起こったときどうするかの対応も必要です。また、原発関連でのしごとはもちろん、宿泊・飲食店などの地元経済にも原発は影響(貢献)しています。同時に、夜の商売も多く、家庭教育で悩みのあるところもあります。
学校教育、それから家庭・地域にとって、原発の存在と地震の危険性は大きなものとしてあります。
幼保小中高がスクラムを組む
そのような大変難しい環境にもある御前崎、僕は訪問してすっかりファンになりました。なぜなら、ひとつはお会いした人々がとても素敵な方たちだったこと。もうひとつは、地元の幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校(県立高校がひとつ市内にあります)がタグを組んで、御前崎の教育をよりよくしていこう、切れ目のない子育て・教育をしていこうと動いているからです。
御前崎ではこれを「スクラム教育」と呼んでいます。2つの中学校ごとに、幼保小中高校連携したコミュニティ・スクールを運営しています(スクラムスクール運営協議会と呼んでいます)。
このような幼稚園・保育園から高校まで子どもの年齢をこえた連携を縦糸とするなら、学校と家庭・地域というコミュニティの連携という横糸も加わったのが、御前崎のスクラム教育です。小中一貫教育や地域連携など、縦糸か横糸の一方のみ太い例はほかにもありますが、縦横そろえている例はそうそうありません。
連携をなぜ、どのように始め、広げるか
もちろん、御前崎に限らず、どこの地域でもそうですが、コミュニティ・スクールなど、場・器をつくっただけでは、顔見知りが増える以外の効果はあまり期待できません。コミュニティ・スクールの協議会を開催しても、また会議が増えたのかとイヤイヤ参加していたのでは、クリエイティブな面白いアイデアは出てこないし、実行もできないでしょう。教育委員会や行政がなんとか協働といくら言っても、「笛吹けども踊らず」の地域も少なくないのではないでしょうか?
問題は、多様な人々と連携して何を目指して(なんのために)、何をしていくかです。僕のほうからは、次のタイトルで講演とワークショップをしました。
- なぜ多様性の高い場が重要なのか
- 学校の教職員はがんばっている方がほとんどだが、なぜ学校だけのがんばりでは十分ではないのか
- 学校や園が連携してやっていくべきこととは(仮想事例をもとにしたワークショップ)
- 家庭・地域との連携と一口で言うけど、どのような層を重点ターゲットにしていくか考えているか?
- 地域連携やチーム学校以前に、学校内の教職員の関係性は大丈夫か?(ソトに開く前にウチを開く)
こんな話をしました。
浜岡中での地域連携、学校間連携の取組
訪問した浜岡中では、大変興味深い連携をすでにいくつも実施しています。かつては生徒指導困難校、県内有数の荒れた学校として有名でした。『変わる学校、変わらない学校』で言えば、確実に「変わる学校」になってきています。
一例は、次の写真のシニアスクールです。僕の本にも紹介している岡山市の岡輝中学校の取組を参考に、採り入れたものです(優れた取組を学ぶということもいいですね)。地元の50代~70代のシニアな方が学んでいます。中学生たちは、大人たちが学んでいる姿をみて、ビシビシ刺激を受けます。言葉では言わなくても、学び続けることの大切さを背中で見せているのです。
ちなみに、新野左馬之助についての講演は僕も聞きたいなあ(来年の大河ドラマ、女城主直虎のおじさんが左馬之助と地元の方に教えていただきました!)。
次の写真は、授業研究会でのある国語の先生の指導案です。「モアイは語る」という中2の題材について学ぶときに、この生徒たちが小学校のときに習った「ありの行列」という題材を振り返ってから進めます。生徒たちは小学校の学習とのつながりを意識して、自信を高めて、授業にのぞむことができるというわけです。
大変興味深いのは、この中学校の授業研究会に、地元の池新田高校の先生も来ていることです。わざわざ高校の授業を工夫して、午後に教員が全員参加できるかたちにしたほどの熱の入れ方です。
ぶっちゃけ申し上げると、一般的な傾向として、高校の先生は、中学校や小学校の先生よりも、教科教育については自信とプライドが高い方が多い印象を僕はもっています。専門性がやはり高いからです。それに、県立高校と市立中学校という行政のちがいもあって、中高連携といっても、それほど強いものにならないことも多いと思います。
しかし、池新田高校の校長は、こう断言していました。高校教師が中学校から学べることも実に多いと。板書の書き方、教室という場の作り方、生徒同士の学び合いの進め方などなど。
この言葉は僕は非常に勉強になりました。小中の先生は教科の内容や専門性の点で高校から学べることは多いはずで、逆に高校の先生も小中から学べることもある。互いにお得だから連携する、教員が一番重要視している授業をよりよくするためにスクラムを組む。これは非常にシンプルですが、やる気の上がる話です。
御前崎の教育について、もっと書きたいこともありますが、今日はこのへんで。写真はしらすソフトです!
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アメリカ大統領選をみて―怒りと寛容
きょうはちょっと雑感。
アメリカの政治や社会についてはよく知らないけれど、昨日テレビで、トランプの過激な志向が嫌いという人がトランプ人形を殴りつけていた映像が流れていて、これにはちょっとひいた。
融和とかloveとか言っていたであろう人が、時としては攻撃的になっていたのかもしれない。これは矛盾しているようにも見えるが、たぶんどちらの顔もその人の素なのかもしれない。
みんないろんな事情がありそうだが、先日、映画「怒り」を観たものだから、それとも重なって、複雑な気持ちだった(いい映画ですよ、かなり重いけど)。
アメリカの話だけでもない。怒りが充満し、ぶつけどろこを探しているのは、日本や僕たちの周りにも当てはまることかもしれない。ネット炎上などは、たぶんフェイスツーフェイスのコミュニケーションではあそこまで攻撃的にならない人がほとんどだろうが、凄まじい。
あまり我慢せず、ちゃんと自分の気持ちに素直になろうとするのは、いいこととも思う。論理はやや飛躍するが、自分自身に怒ってばかりで攻めていたら、鬱や自殺になってしまうのかもしれない。
怒りの反対語はなにか、しばらく考えてみた。許すこと、寛容という言葉が思い浮かんだ。これを体現した人と言えば、人類史上もっとも偉大な政治家のひとり、古代ローマのユリウス・カエサルだろう。またローマ人の物語を読み返してみたい。
カエサルの言葉に、たしかこんな一節がある。
わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。
ローマ人の物語〈12〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(中) (新潮文庫)
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みんなの学校、大空小学校をちょっと訪問(1)
映画「みんなの学校」ってご存知でしょうか?大阪市立大空小学校の1年をおったドキュメンタリーです。発達障がいや厳しい家庭環境、不登校経験など、さまざまな背景をもった子たちが、ときには衝突しながらも、互いに学び合いながら、元気に成長していく姿が描かれています。映画の紹介に書かれているとおり、「ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で学びます。」
”みんなの学校”の意味
子ども同士で学ぶ、子どもは大人(教職員や保護者、住民ボランティア等)から学ぶ、大人も子どもから学ぶ、大人同士でも学ぶ、そんな学校をみんなでつくっていく。だから「みんなの学校」なわけです。この大空小学校を先週訪問しました。
(体育館に大きく張られた卒業制作)
大人の多い教室
訪問してまず気づいたのが教室に大人が多いことでした。大空小学校はなにも特別な制度や仕組みのある学校ではありませんが、学級担任が授業を進めるかたわらで、特別支援担当の教員もサポートしますし、空いている先生や地域の方や保護者の方が入ることも多々あります。なので、1クラスに3、4人大人がいるときもあります。
落ち着いて勉強するのが難しい子や文字を読んだり書いたりするのが苦手な子、廊下に出てしまう子など、いわゆる手のかかる子に寄り添うことに時間はかかりますが、大事なのは、そういう子たちだけでなく、いろんな子に大人たちは声をかけているように見えました。
大空小学校の資料にはこんな一節があります。
「授業」はいつでも開いています。時間があれば「インターホン」を鳴らし、学校に入ってください。そして、授業の中に入っていただき、子どもと学び合ってください。
大人が学ぶ姿を子どもが見ることは、子どもの大きな力になります。「いつでもできるときにできる人が無理なく楽しく」子どもにかかわってください。
このオープンさと、できることを各自がやるという姿勢に共感できます。がっちり決めない、ゆるやかな連帯です。実際、ある保護者のサポーターの方のお話をうかがうと、「自分の子のクラスも見るけど、他のクラスを見ることも多いですね。とくにどこが担当とかは決まっていないです。好きなときに来て、できることをしています。」ということでした。
僕も、「ゲストティーチャー」という名札をいただき、教室で子どもたちに交じりました(なので、大空小学校では”視察”というものはありません)。
早々にある子には「あっち行っといて」と言われ、ちょっとひるみましたが、めげずにちょっとずつ関わっていきました。ほとんどの子はこうしたゲストにはもう慣れっ子で、人懐っこい。「名前なに~?」「どっから来たん?」など話しかけてくれました。自分の娘と同じ年くらいの何人か女の子には休み時間に「ちょっと、いっしょに来て~」と言われ、図書室に案内してもらい、占い本を読んだり、けん玉で遊んだりしました。大空小学校に来ると、ちょっとモテた気分になります。
学校の意味を見つめなおす
国語の音読のときには、文字を読むのが苦手な子らといっしょに音読しました。担任の先生からは「小学校の先生ですか?よくサポートくださって助かりました」と、(僕は学校の先生ではないですけど)ちょっと褒めてもらえたのがよかったです。
下の写真はたしか3年生だったと思います、ある女の子が授業中にちょっと退屈していて、「字を書いてほしい、あたしも書くから」ということでメモしたものです。僕は特別支援の知識や専門性はほとんど持ち合わせていないので、ちゃんとはわかりませんが、言語障がいも少しある子で、字もきれいに書けるわけではありません。でも、ひたむきで、純粋で、とてもいい子でした。
”学校”の意味を見つめなおしたいとき、読み返したいと思います。
次の写真のように、廊下のあるスペースには畳があって、くつろぎやすい場所もつくっています。
大空小学校の理念は、次の写真のとおり、シンプルですが、深いものです。いろんな背景や個性をもつ子が、安心して、学び合うことができる学校をみんなでつくる、そんな理念を感じます。
多様な人がいる魅力
1日いただけではまだまだ一端しか見ていませんが、大空小学校では、いろんな子が通常学級で過ごします。教室ではアクティブラーニング、学び合いも非常に活発です。勉強がしんどい子には、大人もサポートしますが、子ども同士でもサポートします。ある子は、自分で手をあげて指名されましたが、発言できませんでした。そういうときも周りの子がサポートしたり、代打に出たりします。
子ども同士も、子どもと大人の間も関わり合いが頻繁で、あたたかい。なので、大空小学校では、不登校経験だった子もここでは登校できる、という例がかなりあるそうです。開校以来、10年ずっと不登校はいません。(いないことがよいこととも、限りませんが。)
調査でも自己肯定感が高い子が多いそうですし、学力もとくに思考力等がためされるB問題が高いそうです。自分のことを認め、褒めてくれる機会や自分なりに考える機会が多いからだと思います。
ここは大事なポイントです。手のかかる子が多い学校では、いわゆるできる子にとって、よくないのではないか、というイメージをもたれる方もいると思います。 しかし、実際は、勉強が得意な子も苦手な子も、それぞれが時には教える側、別のときには教えられる側になります。「あー、この子はこういう気持ちなんだ」や「アイツにはこういうすごいところがあるな」と感じることは、共感力や協働する力を高めているとも思います。
多様性は、公立小中学校の強みである、と何人かの識者は言っていますし、僕も強くそう感じます。子どもはどんな子も個性や光るものがありますが、受験を経て一定のスクリーニングを経た学校よりも、公立小中学校のほうがバリエーションの幅が広くなる傾向があります。家庭についてもそうです。この点で、小中学校は、高校や大学よりもよっぽど多様性に富む空間です。
子どもも大人も多様な人がいるなかで、協力してなにを進められる、これは21世紀スキルとかむずかしい概念を持ち出すまでもなく、人としても、大事な力を育てているような気がします。
けんかも、もちろん子ども同士ですし、頻繁に起きます。映画でも描かれていたとおり、大空小学校にはあれこれむずかしい校則はなく、1つだけ約束があります。それは「自分がされていやなことは人にしない、言わない」です。
この約束に反すると、「やり直し」といって、校長先生の前で反省会があります(校長でなくても構いません)。実際、僕が訪問した日もある男子3人が突っつき合いのけんかになったようで、やり直しをしていました。
そこで、校長はだれだれが悪い、なになにはしたらあかん、などと指導しません。「そのときどういう気持ちやった?」、「それ自分がやられたら、どんな気持ちになると思う?〇〇君はどう感じたと思う?」と問いかけます。コーチングに近いです。子どもたちは、しゃべるのがうまいとは限りませんが、必死に自分の頭と体で考えて、表現します。
このように、自分でしっかり考える子を育てているのも大空小学校の特徴だと思いました。映画で描かれていることや、木村前校長が著書で書かれていることは、一部を切り取って大きく出しているところがあるのかな、と訪問する前は推測していましたが、この予想は裏切られました。映画や木村さんの本のメッセージにあった、大空で大事にしていることは、しっかり今も引き継がれ、発展していると感じました。
※ほかもレポートしたいことはありますが、長くなったので、今日はこのへんで。
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2020年の大学入試改革で本当に大きく変わるのか?
2020年に大学入試センター試験が廃止され、新しい共通テストに切り替わる。これは学習塾や予備校の存続にかかわる大きな改革だ、受験生を控える子をもつ親や高校生も普通の塾通いのままでよいのか考えておくべきだ、という論調もたびたび目にするようになった。
しかし、本当に言われるほど、大きな変化になるのだろうか?
僕は大学入試や選抜試験の専門家ではないけれども、こうした煽り、あるいは期待には、かなり疑問がある。そのことについて今日は少し書いてみたい。
なぜセンター試験は廃止になるのか?
まずは、なぜ大学入試改革なのか。文科省の審議会の座長をした安西先生に聞くのが一番だろう。以下の毎日新聞のインタビュー記事がけっこう詳細だ。
http://mainichi.jp/articles/20160316/ddm/004/070/005000c
一部引用する。
現在のセンター試験のような多肢選択式のテストの場合、問題の解き方は与えられた選択肢 の中から正解を一つ見つける、という方法にな りがちです。すると、勉強の仕方もそれに合わせた形になってしまいます。・・・
これから労働生産性が低迷し、グローバル化が進むなど厳しい時代を生きていくために は、主体性を持って問題に取り組み、文章を書いたり図を描いたりして自ら答えを見つける 総合力が求められる。そうした力は「大学の個別入試でみればいい」という指摘もあるが、 国の共通テストでやることに意味があります。
つまり、いまのセンター試験のように、知識を〇×式で試すだけではこれからの時代を生きる力として不十分だという認識があるようだ。そこで、新しい共通テストでは思考力・判断力・表現力をより求めるようにしようという発想で、一部に記述式を導入する。ただし、記述式といっても、当面導入される予定なのは、国語と数学だけという点は覚えておいてほしい。
もう少し、安西先生の記事から引用する。
記述式問題なら思考力や表現力を評価できます。すでに公表された問題イメー ジを見てほしいが、例えば、あるテーマに関する1400字程度の新聞記事を読んで自分の 考えをまとめる、というような問題です。
国の新テストで記述式問題を導入すれば、高校教育が変わることが期待できます。入試だけの改革ではなく、教育改革なのです。
と大きな期待が読み取れる。
しかし、いくつか素朴な疑問が浮かぶのは、僕だけだろうか?
思考力・判断力・表現力が重要なのは今もでしょ?
ひとつ目の素朴な疑問は「なにを悠長な」ということだ。2020年に一部の識者がいうような大きな変革が起きたとしても、いまの高校生は救われないではないか?2020年のテストの対象となるのは、今の中2の子たちなのだから。
そもそも、思考力・判断力・表現力について、次期学習指導要領のキーワードのように一部で言われているが、大きなウソである。現行の学習指導要領にも大きく出ているので、ちらっと読んでほしい。
学校の教育活動を進めるに当たっては,各学校において,生徒に生きる力をはぐくむことを目指し,創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で,基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくむとともに,主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。
この一節は、高校の指導要領の第1章総則の最初のところにある。つまり、これまでも思考力・判断力・表現力は大事だとされてきた。それが十分できていないとすれば、本当にセンター試験だけのせいなのか?あるいは、大学入試の関係者がもっと思考力や表現力を試す試験がしたいと思っているのに、できていないとすれば、それはなぜなのか?
そのあたりの検証がかなり甘いのではないか?
現状で思考力等を試す試験ができていないとすれば、それはなぜなのか、この疑問の答えとして、次のことが考えられる。
- 思考力・判断力・表現力を試すのは手間がかかり過ぎるので、やりたいけど、なかなかできないでいる。
- 思考力・判断力・表現力を試す必要がそれほどない。うちの大学ではそれほど高尚なことはやるつもりはないのでというパターン。あるいは、ある程度基礎学力を測れば、その人の思考力もある程度は相関するので、わざわざ手間のかかることをやる必要なしというパターン。
記述式は採点が大変過ぎて、結局は大したものはできないかも
先ほどの仮説1(手間がかかり過ぎる)については、さすがに国も大学もよく認識しているようだ。センター試験に代わる新テストの時期や内容をめぐって、最近大いに議論がなされいる。ちょうど今日もこんなニュースが飛んでいる。
あるいは東京新聞に掲載の表がうまく要約してくれている。
大学の採点等の負担が少ないのは、80文字以下程度の設問にするという案だ。とはいえ、80文字以上だとしても、いずれにしても、国語で1問ずつの出題予定だという。ないよりは大きいと思うけど、これで大改革と本当に呼べるのだろうか?
おそらくいまの受験勉強の延長のようなところはある程度は続く、と考えておいたほうが安全だと感じる。
記述式には大変な手間がかかる。次の資料は、文科省の高大接続システム改革会議「最終報告」の参考資料にある。この資料の読み方はとてもわかりにくいのだが、解答文字数が200~300字の長文と80字以内の短文を組み合わせ て計6問出題すると、最長で約2カ月かかるという試算らしい。それも1日に800人が採点して2か月なのである。
本当に50万人相手に考えることなのか?
200、300文字の記述式試験を一部に入れた場合(試験の全部じゃないよ、ほんの一部に)、800人が採点して2か月もかかりかねないのは、受験者がいまのセンター試験では多いからだ。この試算でも53万人が受験すると仮定している。
そうすると、先ほど述べた2つ目の仮説が頭をよぎる。つまり、思考力等をしっかり試したい大学と、そこまで見る必要がない大学とは、分かれるのではないか?
みんながみんなに試験しようとするから、スケジュール上の無理や大きなコスト(税金なり家庭の負担)がかかるのである。大学入試の目的は思考力の養成ではない。入学希望者の選抜であるのに、どうも、欲張った改革をしようとしているようにも見える。
大学の対応は5種類に分かれる?
関連するのは、先に引用した今日のニュースだ。国語の記述式問題を難易度が高いのと中程度で分けるという案である。仮にこの案が通った場合、交通整理すると、大学は少なくとも5タイプに分かれる。
①大学の個別試験でも記述式を課して、新共通テストでも長いほうの記述式を課す。
②大学の個別試験では記述式はやらないが、新共通テストでは長いほうの記述式を課す。
③大学の個別試験で記述式はやらないが、新共通テストでは短いほうの記述式を課す。
④大学の個別試験でも記述式を課して、新共通テストでも短いほうの記述式を課す。
⑤新共通テストを導入しないで、大学の個別試験のみでいく。
①は、共通テストと個別入試の両方で思考力等を試そうとする、かなり気合に入った大学ということだ。センター試験がかわる効果は少しはあるだろうが、こういう大学は今でもしっかり個別試験でむずかしい入試問題をやっているだろうから、受験生にとって今とすごく変わるかと言えば、疑問が残る。
③の場合は、ちょっとは記述式で試すことができるが、効果は限定的だろう。
となると、大学入試改革で比較的影響が大きいのは②の場合だろうと思う。このタイプがどのくらいになるのか、ひとつ注目だろう。
興味深いのは④だ。この案は共通テストで短い記述式しか課さないのに、個別試験で記述式をやるというのは、一見矛盾しているように見える。しかし、仮に僕が東大や京大のような難関大学の入試担当者だったとしたら、④を採用すると思う。なぜなら、①だと共通テストの記述式を自分たちで採点する手間がかかってやっかいだ。どうせ自分たちの個別試験で思考力等はしっかり試すので、足キリのために共通テストは使う、だから手間のかかりにくい④を選ぶ。
この④の場合は、現行とそれほど変わらない、だから2020年の大改革にはならない。
以上、ごじゃごじゃ書いてきたけれど、やはり採点の手間や大学側の予想される反応を考えると、現行からどれほどの改革となるのかは疑問が残る。もちろん入試が変われば高校教育が変わるという側面は否定できないけれど、もっとほかの方法も併せて考えていかないといけない気が一層した。
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”〇〇は参考にならない”は自分のなかで禁句にしたい
最近いろんな研修や講演の場で、事例の紹介をしたり、あるいは事例発表から学ばせていただく機会が多い。「神は細部に宿る」と言うが、やはり具体的なところを聞くことで、より明確に重要なポイントを考えられ、なるほどと思えることは多い。
一方で、「いい話は聞けたけれど、自分にとってはあまり参考にならなかった」という反応をする人もいる。
学校などでも、同じ研修を受けても、
Aさんは「ここが勉強になった。自分の学校に当てはめると、こういうことかなと思いました。」
という人と
Bさんは「あそことうちではいろいろ事情がちがうし、あまり参考になりませんでした。」
という人に分かれる。きっとあなたの職場でもAさん、Bさん両方いると思う。
Bさんが言うことももっともなところは多い。たしかに、それぞれの学校でのこれまでの経緯や伝統、職場の風土・文化、あるいは管理職の姿勢や予算などが揃わないと、実現できないことは多いからだ。
しかし、Bさんのようなこと言うと、なんでもそうなりかねない。小中高校は全国で4万弱あるが、4万弱通りの事情がある。
関連して、先日フェイスブックで、部活動が中学校の新人教員にとって負担となっているという記事をシェアしたところ、ある方(Cさんとしよう)は、「解決策が書いていないので、参考にならない」というコメントだった。
たしかに、現場で一生懸命なCさんにとって、せっかく問題提起するなら、解決先まで言えよ、それが専門家だろという意見を言たくなるのも理解できる。
しかしながら、そんなに簡単にためになる解決策(=魔法の杖)があるのなら、とっくの昔にだれかがやっているはずだとも思う。なぜこれまでできなかったかをよく考えて、対策は考えるべきだ。
中途半端な言い方かもしれないが、びしっとはまる解決先など、そうそうない。とはいえ、多くの事例や実践にある程度当てはまることや共通して留意するべきことはある。たとえると、絶対ホームランが打てるというバッティングのしかたはないが(教えられないが)、打率がある程度高まる方法はある。イチローだって4割はいかないように、4割以上の確率で解決策がジャストミートするなんて、現実の複雑な世界ではないのだろうう。
経営学の世界もおそらくそうで、たとえば、戦略論の本は今まで何百冊と出ているが、それは優れた戦略としてコピぺなどできるものはないからだ(簡単にコピペできるなら、差別化できず、よい戦略にならないし)。ある程度共通して留意するべきことなどは言えるが、あなたの会社にとって優れた戦略はなんですか?と言われれば、ケースバイケースである。
ましてや、企業経営以上に、学校づくりは、いろんな価値判断があるし、長期でないと見えないこともあり、よしあしを決めにくい、難儀な業界である。
話を戻す。一見もっともらしい理由をたてて、「〇〇は参考にならない」というのは、いかがなものだろうか?この下の写真のように、すぐにそっぽを向いてよいものか?
優れた学習者ならば、どこかしらで参考になる点を見つけていけるのではないか?
僕がこれまでお会いした校長や教職員の方で、この人いいなとすごく思った方は、ほぼ間違いなく、情報のアンテナが高い。業界や背景事情は異なっても、よそから学べることを見つようとしている。
つまり、言い過ぎかもしれないが、「〇〇は参考にならない」と言ってしまうのは、「私は考えるのがめんどうなので、参考になることを見つけることができませんでした。降参です。」と言っているのとそう違わないのではないか?
僕もそうそう偉そうなことを言えるわけではないが、自分としては、「〇〇は参考にならない」は禁句にしょうと思う。
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大河ドラマ真田丸から会議の仕方をまなぶ
昨日の大河ドラマ真田丸は、合戦などの派手なシーンはまったくなかったが、これまででもっとも見ごたえのある回のひとつだった。大坂冬の陣の直前の軍議、作戦会議を描いたもの。脚本の三谷幸喜さんは、清須会議で小説と映画を出してしまうほどの会議好き。その真骨頂が出た回だった。
ドラマはドラマなので、史実はどうだったかは分からないところも多いが、今回のシーンには、あらゆる組織での会議の作法として勉強になるところがあった。
①目標のベクトルを合わせること
この軍議では、5人衆と言われる大坂方の牢人衆のリーダー格が、豊臣秀頼(秀吉の息子)ならびにその側近と話し合う。家康を相手に、籠城するべきか、はたまた討って出るべきか。
詳細はドラマを見てのお楽しみだが、5人衆の意見は分かれる。「なぜ籠城戦にこだわるのか」、「そもそも、あなたはなんのために大坂に来たのか(=負ける可能性の高いほうにわざわざついたのか)」と真田信繁(幸村)がほかの4人に詰め寄るシーンが印象的だ。
そうすると、もともと烏合の衆と思われていた牢人たちだが、それぞれの思いがやはりバラバラであることが判明する。
- ある者はとにかく武功をあげたい、自分を試したいために来た(毛利勝永)
- ある者は家康のキリスト教禁止が許せないから大坂方に来た(明石全登)
- ある者は一国の大名に返り咲きたい再チャレンジのために来た(長宗我部盛親)
そこで、信繁のシビれるシーンがある。「みんな思いはそれぞれだが、ひとつ共通している点がある。生きなければ、勝たなければ、叶わないということだ」。
このあたり、学校などでもそうだが、みんなが各々のこだわり、思い、教育観をもっている。そのベクトルを少しずつ合わせていくことにもヒントがあった。
※拙著『変わる学校、変わらない学校』にも関連する箇所はある。
共通点は何なのか、それも、共通して成しとけなければ、みなの思いが実現しないことは何なのかと探していくのである。大事なのはベクトルを完全に一致させようとすることではない。少しずつ方向を合わせていき、和をとれるところを見つけることだ。
②ジョーカーになる
籠城か討って出るか。最初の軍議では、まず秀頼側近の大野治長(※ほかのドラマや小説と違って、今回はヘボい役には描かれていないことにも注目)らが籠城を主張、また5人衆のうち4人までもが籠城と主張して、場の空気は一気に籠城となった。
最後に口を開いた信繁が「不承知」と一言。徳川本隊が到着していない今のうちに、家康のいる京都に攻め上るべきと主張した。
これは、信繁がいわば「ジョーカー」となったのだ。会社などの会議でもみんながそうだ、そうだといって場の空気(日本人はこれが好きだと言われる)が決まりかけたとしても、そこに疑問や批判を差し込む者がいなければ、よりよいアイデアにはならない。
映画「12人の怒れる男たち」という名作をご存じの方は思い出してほしい(見ていない方はたぶんネットにもあるから、必見。ちなみに三谷幸喜さんはこの映画が大好きと言っていた)。ひとりの疑問が大事なことは多々ある。
あなたの組織には、ときにジョーカー役となってくれる人はいるだろうか?
③根拠なき楽観論
ドラマで信繁が述べていたとおり、籠城戦というのは、こもっている間に他の場所から援軍が来て、そいつと敵を挟み撃ちにできるから効果的だとされている。大坂の陣では援軍が来る見込みはないのに、なぜ籠城戦がよいと思うのか、信繁が周囲に問いかけた。
織田有楽斎のセリフだったと思うが(記憶がややあいまい。東京の有楽町は彼が住んでいたことから)、「1年2年籠城していていれば、そのうち家康が死ぬ」。
実際、史実として家康は大坂夏の陣の翌年、安心したかのように天寿をまっとうする。しかし、それは後でわかること、この時点では不確かである。
こういうのを根拠なき楽観論という。戦前の日本軍部はこれが支配していたと言われている。小池都知事が座右の書としてあげた『失敗の本質』という太平洋戦争での日本軍部の失敗の要因をたいへん意欲的に分析した作品がある。これにも楽観論や空気の支配という論点は出てきたと思う(ずいぶん前に読んだきりだから、また再読しないと)。
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根拠なき楽観論は会社でも、行政でも、学校でも、あらゆる組織で起こりうる。
- 新興国の景気がよいので、進出すればうちの商品は買ってくれるはずだ。
- わが社の技術力をあげた開発したこの新機能は、きっと消費者に受け入れられるはずだ。
- 大きな予算をかけて、みんなで話し合って進めたこのプロジェクトはうまくいくはずだ
などはいずれもプロダクトアウトの発想で、顧客や競合を見ているとは言い難い。他社も同じように考えて進出してきたら、なぜうちの商品・事業は勝てるのか、根拠は薄い。
学校でも
- いまは荒れているところもあるが、この3年生が卒業すれば落ち着いてくるはずだ。
- 学校評価のアンケート結果が去年よりよくなかったのは、よそで〇〇の事件があった影響もあるだろう。
などは、根拠なきと言えば、やや言い過ぎだけれども、楽観論で本当の原因や課題を分析しようとしていない、思考停止になっているかもしれない典型例である。
この根拠なき楽観論が場の空気として支配しかけるときに、②で述べたジョーカー役が大事になる。
もっとも、今回のドラマでは信繁の作戦も相当楽観論ではあった。たしかに徳川本隊がいないうちに京都を攻める、家康は大坂方は籠城すると思っているだろうから油断しているだろうと。兵数は大坂のほうが少ない(半分)、しかも牢人の集まりなのだから、本当に勝てる見込みはあったのか?
実は、秀吉と家康は信長に学んだことが多かったが、そのうちのひとつが油断しないことである。信長が本能寺の変で死んだのは、まさか攻めてくるやつはいないとふんで、京都の防御体制が脆弱だったからだ。この反省から、秀吉、家康は伏見城を重視した。
ところで『失敗の本質』でも十分分析されていたかどうかわからないが、根拠なき楽観論は、勝者となる側にもおこりうる。この大坂冬の陣、そのあとの夏の陣の時点では、おそらく、徳川方のほうが勝ち間違いなしとして安心していたはずだ。この点が、真田信繁の名を後世に残すひとつの背景となったのだと推察するが、これは大河ドラマの終盤でおそらく描かれることになるだろう。
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